093 面白くて奥深い作品
   自らの人生を聴衆に語った講演集
   森 敦著『十二夜』 月山注連寺にて
高野悦子
出典:週刊読書人 昭和62年10月5日(月)
 月山の麓、注連寺で著者が自らの人生を聴衆に語った講演集『十二夜』は、文字通り十二章から成っていて、活字も大きく読みやすい。毎晩、一夜分ずつ楽しもうと頁を開いた私は、結局、一気に読了することになった。
 話術の達人といわれる著者の、そのユーモア溢れる語りかけは、思わず声をあげて笑ってしまうほどのおかしさである。父上のこと母上のこと、傍若無人な一高時代のこと。
 しかし、読み進むほどに、ただ笑ったり感心ばかりしてはいられないことに気がつき、坐り直してまた読んでゆく。そして第十一夜、第十二夜に至って、私は愕然としてしまった。著者の広く深く厳しい思想に改めてふれ、この著者を日頃、先生、先生といっては何かとご厄介をかけている自分に思い当ったからである。
 小説『月山』が映画化され、岩波ホールで上映したのは一九七九年のことだった。その時以来、私は森教氏を師と仰いで相談をもちかけ、質問をし、愚痴をこぼし、先生のひとことで救われ、励まされるという日々を送ってきた。まがりなりにも私が幾つかの本を書くことができたのも偏えに森先生のおかげである。
 一九八一年八月の終り、私は注連寺に行った。『月山』の文学碑の除幕式に出席するためだった。その二ケ月前、私は父を亡くしていた。晩年の父と心の通った暮らしをしていた私にとって、突然の父の死はあまりにつらいことであった。そんな私を慰めるかのように式のさなか、月山は忽然と姿を現した。
 それからしばらくして、私は父の青春時代の足跡を辿るべく、中国の東北地方を父が建設した鉄道に乗って、六〇〇〇キロの旅をした。父は満鉄の技師だった。
 父が生涯で一番うれしかったのは、ソ連との国境の町、黒河に鉄道が達した時だという。その町に私も行きたい。そこを流れる黒龍江のほとりに立ってみたいという私の熱望が、ようやく叶えられたのである。
 だが、念願の河畔に立っても私の気持ちは釈然としなかった。そんな私の心にやがて浮んだのが小説『月山』の扉に書かれた孔子の言葉、「未だ生を知らず焉ぞ死を知らん」だった。まだ、これといった仕事をせず、人生の何たるかを知らない私に、どうして父の死を恨むことができよう、私はもっと一所懸命に生きなければならない。と私流にこの言葉を解釈することによって、私ははるばると尋ねきた大旅行に決着をつけたのだった。
 『十二夜』の扉には、「生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死んで死の終わりに冥し」という空海の言葉が引用されている。森先生は、“「未だ生を知らず……」の意味を変容すれば「既に死を知らば なんぞ生を知らざらん」と言えるのではないか”と述べておられる。
 そして、もう一つの著作『われ逝くもののごとく』の扉に書いたこれも孔子の言、「逝くものかくのごときか昼夜を舎かず」に輪廻の思想が加われば、それは前記の空海の言葉にな
る、『十二夜』では敢えて踏みこんでそこまで語った、とつづけておられる。
 面白くて為になる、と思って読み始めた『十二夜』は、それだけに終わるものではなかった。何年もかかってようやく『月山』の扉の語句を理解した私に、『十二夜』はまだ遠い。それは庄内平野の彼方にかすんで見えた鳥海山のようである。
 私は『十二夜』を何度も読み返しては、この本の書評を引き受けた自分の迂闊さを恥じている。(A5二八三頁・一六〇〇円・実業之日本社) (たかの・えつこ氏=岩波ホール総支配人)
★もり・あつし氏は作家。旧制一高中退。著書に「月山」「鳥海山」「意味の変容」「マンダラ紀行」「われ逝くもののごとく」など。一九一二(明治45)年生。
 
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