094 十二夜 月山注連寺にて
   森 敦著
石毛春人
出典:新刊ニュース 昭和62年12月1日
 著者森敦氏には、よく知られているように「月山」という作品がある。さらに今年になって「われ逝くもののごとく」という大作を発表された。これは長さにおいてもその内容の深さにおいても、さらに感銘の度合からいっても近来まれにみる快作であり、この書評欄にも私はそう書いてきた。この二つの小説作品とも、月山と山形県庄内地方が舞台であった。
 この「十二夜」は、傍題にあるとおり、その月山の注連寺での講演をまとめたものである。月の明らかな季節、友人や知己、あるいは読者や崇拝者などに囲まれて、「わが人生」から始めて、思い出すことを次々と語っていったのであろう。従ってこの本を読むのはその講演の場に同席しているような思いにさせてくれて楽しい。そうしているうちに、「われ逝くもののごとく」や「月山」などの名作がどのような人によって生まれたのか、自然に会得されるような具合なのである。
 漢学と書道を教えていた厳格な父と、日赤の看護婦として日本海海戦に遭遇しかけた母との間に長男として生まれ、京城に育って、小学校に入る前から論語を習わされた、という幼い頃からの話は自由自在、融通無碍、古今東西、とどこおるところがない。とくに私などには、適当な所で挿入される漢文の深い意味について教えられるところが多い。それも、なんだかにやにや笑ってしまいそうな喜悦と共に教えられてしまうのである。
 この本にはどの頁を開いても、著者の長年の思索に裏打された独得の名文があるのだが、その一部を適宜に引用する誘惑に私は勝てない。
 ──わたしたちが現在こうあるのは、過去における一点一画が狂っていても、こうはおれないのです。したがって、いまある瞬間がいかに大切なものであるかが知れるのです。──
 網走に講演に招かれて行った時の話も面白い。網走刑務所は名所になっているらしく、キルティングを着た若者たちが群れている。「どうせ玩具なんでしょうが、だれかが手錠を持っていて、互いにその手錠をかけ合い、門前から中に引かれて行くポーズをとって、記念写真を撮ってもらっているのです。」この情景を見て森敦氏は嘆いているのではない。人のするほどのことは何でもやってみたい、監獄にも入ってみたい、と思っていた自分の若い頃を回想しているのである。
 ──ダンディズムは酒落、デカダンスは退廃ということです。近世芸術のよるところになったものですが、要するにダンディズムは「恰好いい」ということ、デカダンスは 「どうなとなりやがれ」ということで、これが意外にわたしたちを勇敢ならしめるのです。また勇敢というものは必ずこうした匂いを匂わせているのです。──
(実業之日本社刊・定価一、六〇〇円)
 
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