102 文芸時評
   森 敦著『浄土』 (抜粋)
井口 時男(文芸評論家)
出典:図書新聞 昭和63年10月1日(日)
 今月の『群像』の短篇には、安らかな気持で読者を憩わせてくれる性質のものが幾つかあった。小説とは本来、そうしたささやかな安らぎの場でよいのだと思われてくる。
 中で森敦「浄土」。日本統治時代の京城で、女の子二人と男の子一人が蕨取りに遠出する。場所は一面青草に蔽われた土饅頭の並ぶ墓地。どこからか慟哭の声も聞こえる青空の下でサンドウィッチを食べながら、一人の女の子が弾むように言う。
 「見て。みんなで泣いてもらったんで、お墓の人が喜んでひらひらと踊ってるわ。唄も聞こえるじゃないの。まるでお浄土のようね」
 「お浄土」とは何と軽やかで楽し気な響きを伝える言葉だろう。川端茅舎の「ぜんまいののの字ばかりの寂光土」を思い出す。片やぜんまい、片や蕨。茅舎の「寂光土」が水のように静謐な哀しみを堪えていながらどこかユーモラスな土俗に通底しているのに対して、こちらの「お浄土」はもっとナンセンスに突き抜けつつあくまで透徹した無邪気さがきらめいている。こんな言葉に出会えるなら、読者は小説という形式といつでも喜んで和解できる。
 
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