(文 森富子)
Part 10

近代印刷の看板前での森敦(61歳)。
 近代印刷は、昭和40年(1965)鶴岡市大山から上京して勤務した印刷会社。社長と並んでいる写真がPart4にある。53歳のときに勤め始め、62歳のとき芥川賞受賞。近代印刷に勤めだしたいきさつは以下のとおりである。
〈山形県庄内のいまは鶴岡に編入されている大山という町にいたのだが、ふと庄内銀行の通帳を見ると、二万円しか残っていない。いつも、清美さんというわたしの厄介になっていた女あるじに、通帳を預けっぱなしにして、適当にやってもらっていたから、気もつかずに平然としていたのだが、これはどうにかしなければいかんと思っていると、島尾正さんから手紙が舞い込んだ。/「ある印刷所で出版をやりたいと言っています。そこで、その編集者を欲しがっていますが、そこに勤める気はありませんか。これは先方から相談を受けたので、ぼくがあなたを売り込んであげようとしたのでは、決してありません」まるで、かってに売り込みでもしようものなら、へんな真似はするなと言いだしかねないと思って、忖度してくれているような温かい言い草である。『森敦全集第7巻「諸悪の根元」』〉
近代印刷のデスク前での森敦(61歳)。
 前の写真と同じときのもの。机上はいつも乱雑で、触るとくずれてくると言っていた。作品をかくときも乱雑でなければ頭が動かないと言い、掃除を嫌った。旧制一高の寮生活で習い性となった。
〈従業員はたえず臨時工が出はいりしているから、二十五、六名から三十二、三名ぐらい。中小企業というはおろか、小企業を通りこした零細企業で、後藤明生さんなどは、「ここでぼくがいちばん面白いのは、社長さんの家族がこの工場の二階に住んでいるというところですな。ぼくが書くなら、そこに目をつけますな」というのである。それも冗談ではない、真面目である。「諸悪の根元」〉
近代印刷の印刷機の前での森敦(62歳)。
 芥川賞受賞後、毎日新聞の出版写真部の中村太郎氏撮影。近代印刷の工場内での写真は珍しいので掲げる。
〈ぼくは飯田橋の近代印刷という印刷屋にご厄介になっていた。社長は小山恵市、小さなからだの老人だが、故牧野富太郎博士と寝食を共にして、植物図鑑をつくり上げた人だから志は高い。しかし、この志の故に経営はあまりよくない。時に、天井を仰いで言うことがある。「うちもオフセット工場にしとけばよかったな」何故なら、五台の活版印刷機より、二台のオフセット印刷機の収益が上回り、からくもやっているからだ。『全集第八巻「本に生きる」』〉
近代印刷の事務所での森敦(62歳、左)。
 死の直前まで執筆し未完に終わった、小説「君、笑フコト莫カレ」を執筆するとき、「近代印刷のことを書きたい」と語っていた。
〈「きみィ、あの印刷所はまるでゴールキーの『どん底』だよ。あれで事務所にいる連中はみな大学出で、つまりまあ男爵というところだな。それも、どこかで定年になって、来たというのではない。なんだか、いつかどうにかなるだろうかと、あくせくやっているうちに、みな定年すぎの年齢になってしまった連中だ。なんとか、手形を書いてもらってそれが割れ、遅れ遅れの給料が支払えると、ほっとしてみなで茶碗酒をやりながら、かつてあくせくやって来たことを、夢見るように話し合っている。『どん底』だ。ぼくがもし小説を書くんだったら、あの小さな所を舞台にして、第二の『どん底』を書くよ。しかし、ぼくもこんどはその『どん底』で食わせてもらっているんだから、もう一生ここから逃れるわけにはいかないね。いままでは、だいたい十年働いたら十年遊び、十年遊びしてきたんだが……」『全集第七巻「諸悪の根元」』〉
近代印刷の活字のケース前での森敦(62歳、左)。
 近代印刷は、活版を主に扱っていた。森敦はかつて孔版にのめりこんで同人誌を一人でつくっていた。文章を書き、ガリきりをし、印刷、製本して発行。そのため、活版の字母の書体にうるさかった。
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