(文 森富子)
Part 12

 森敦の父・茂(1861〜1930)は、雲耶山人と号した書家。その書、落款、遺品が、森誠氏(森敦の長兄・競の長男)の手で保存されている。誠氏の撮影した雲耶山人の書などを以下に掲げる。
 父を語った森敦の文章を、次に引用する。
〈母は父のもとにとついで、(中略)長崎市の銀屋町で、ぼくを生んだのだが、そこで頼まれて長崎の祭オクンチの傘鉾の花をつくっていたという話などもしていた。だから、客気に逸って選挙に出たり、苓北町長森実さんのいわゆる殖産興業に手を出したりして借金し、二重抵当、三重抵当にして落魄した父を、れいの共立女子職業学校で習い覚えた造花で母が助けていたのかもしれない。
 その父が韓国に渡り、頼山陽の天草洋の詩にちなんで雲耶山人と号し、書家として生計を立てるに至った。しかし、日露戦争の終結ともに破産したものを、日独戦争の好況でお釣りが来るほど回復した後も、父は郷土に帰ろうとせず、京城の瓦屋根の門のついた大きな銀杏樹のある黄金町を去り、南山に近い旭町に家を買って永住の構えをみせた。『全集第五巻「星霜移り人は去る わが青春放浪 東南西北」』〉
雲耶山人の30枚ほどの短冊。

雲耶山人の落款。

森茂(雲耶山人)の落款。

雲耶山人の小品。

富岡小唄の書。作詞家の島田磬也が昭和28年10月、富岡において作詞。
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