(文 森富子)
Part 17

市谷田町に転居した当時の森敦(65歳)。
 撮影者不明。昭和52年(1977)1月に、調布市布田のやよい荘から都心の市谷田町の新居に移り、ここに12年間、亡くなるまで住んだ。気に入っていた、やよい荘から離れがたく、家造りに背を向け、引っ越しに抵抗した。やよい荘に住み続けたいという意をくんで、家財道具をやよい荘に残しての引っ越しとなった。引っ越した夜、NHKの仕事をすませた後、万一心変わりで市谷田町に足が向くならと渡してあった地図を頼りに新居に現れた。住んでみると、高台からの眺望が気に入り、来客に自慢し、文章にも書いた。
 森敦の背後の家具ができていないため、台の上にプレーヤーを置いてある。これは、新井満さんから頂戴したもので、組曲「月山」のLPを来客の皆さんと聴いたりした。その上に掛けてある絵は、小説「月山」をイメージして描いた長倉祐好氏のパステル画。これは連作の一つで、森敦に進呈するために島尾正氏が買い求めた作品。
紫煙をくゆらす森敦(65歳ころ)。
 撮影者不明。ヘビースモーカーの森敦らしい写真。自分自身を煙に巻いていたようにも見える。十年働き十年遊びの人生だと言って、人々を羨ましがらせたり、放浪40年といわれたが、どこに住んでいたかと問われても「分からない」と応えたり、自分を煙に巻いて楽しんでいたともいえる。
市谷田町に転居した直後の森敦(65歳)。
 撮影者不明。裏面に「1977年・1月31日」と記されている。この写真も煙草を手にしている。森さんの写真は、どれも煙草を持っているのね」と言われる。
飾り棚を背にした森敦(65歳)。
 飾り棚は、LPプレーヤー、スピーカー、レコードラック、カセットテープを収納するためのもの。このころから表情に疲労の色が漂い始める。
日本酒を飲む森敦(67歳)。
 撮影者不明。『日本発見 酒と日本人』(暁教育図書、昭和54年12月15日発行)に「酒こそわが人生(談話)」に掲載の写真。文末に(神楽坂・三善にて)とある。この写真は、「サライ」(小学館、平成元年12月7日発行)の「ひとり飲む酒」に再掲載。引用文「これを程よく温めて、銚子から藍色の模様のついた薄い白磁の盃に独酌して飲む。薄い白磁の盃は美人の唇の如し」(『日本発見 酒と日本人』)が引かれている。
 電源開発に勤めているころ、ダムを造るため、土地買収は大きな仕事で、利権者との交渉は酒席で行われた。森敦は、話し好きで、知恵者で、酒が強く、交渉に能力を発揮したという。相手の利権者が酒に酔っても酔わない森敦に、付き添っている若者から、「酔ったふりをしてほしい」と言われたと語っていた。
 庄内にいるころ、上京した折、同人誌「立像」の主宰者の桂英澄氏のお宅に泊まり、酒を飲みながらの文学談義、桂氏は途中でダウンしたが、一升瓶三本をあけても平気でいたという。
 70歳を越すと、「酒が飲めなくなったら、終わりだ」とか、「ものが食べられなくなったら、割り箸に脱脂綿を巻き、それを酒にひたして口もとに当ててほしい。酒をチュッチュッと吸って、末期の水がわりにする」とか言っていた。
 森敦は生涯、談論風発の楽しい酒飲みであった。酒にまつわるエピソードは数多く、書ききけれない。機会あるごとに記したい。
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