(文 森富子)
Part 19

書斎での森敦(65歳)
 調布市布田のやよい荘から、東京都新宿区市谷田町に越したのは、昭和52年1月。それから半年後の夏。家移りを猛反対していたのに、初めに言った言葉が「暖かい家だね」。寒がりで風邪をひきやすい。石油ストーブでは危険と思い、セントラルヒィーテングにした。その暖房が気に入ったようだ。次に言った言葉は「眺望がすばらしいね」。高台に建つ家は、飯田橋のお堀の向こうの法政大学と対峙していた。来客に「眺めがいいでしょう」と自慢した。愛嬌ある無邪気な心変わりだ。
 かねがね書斎の机はこうありたいという願望を聞かされていた。長年の夢を実現すべく、漆工芸家の城取邦雄氏に自ら机の注文をした。城取氏とは、長野県木曾にNHKのテレビ取材で行ったときに知り合い、生涯にわたって交流した。
 写真の机に、同じ幅の小机を追加注文して、倍の長さの机に仕立てて使用した。卓袱台で執筆しているときも、卓袱台の前に手作りの折り畳み式の机を置いていた。なぜ長い机を欲したのか。「コレスポンデンスのためだ」と応えた。執筆した原稿を1枚目から並べるためには、机は長くなければならない。コレスポンデンスを考えるために、前に書いた文章を並べて一望したいという。例えば、50枚目を書くときに、3枚目に書いた部分と照応させよう、と考えるのだと言う。『われ逝くもののごとく』のときも生原稿のコピーを並べていた。1700枚ほどの原稿を重ねて並べるので、一望はできないのに、「心眼で見える」と言っていた。
台風の被害にあった瑜伽山。
 撮影者は辰巳旭氏。写真の送り主は奈良ホテル前に住む足立豊氏。封筒の消印は昭和58年4月19日。写真の裏面に「写真の向って左側に登り口がありました」と記されている。
 瑜伽山はエッセイにしばしば登場するが、一部を次にあげる。
〈奈良公園には志賀直哉のいた高畑から、鷺池、荒池に沿って南を限りながら延びる丘陵がある。瑜伽山はそれが奈良ホテルに至って尽きようとするあたりの称で、わが山荘はしばしば方丈を偲ばすねとひやかされたりしたものの、松林におおわれ、いながらにして眼下に拡がる僅かな町家の彼方に、たたなずく青垣に抱かれた大和盆地の全円を見はるかし、眉のように引かれた大和三山を遥かに眺めることができる。〉『森敦全集第7巻「阿修羅の面差し」』
 寄寓していた東大寺から山荘に移ったとき24歳、ここを拠点に捕鯨船や鰹船に乗ったり、樺太に行って北方民族と生活したりした。ここでの生活は浮世ばなれをしていて、信じがたく「嘘くさい!」を連発していた。芸妓の福造が山荘に来て髪をとかし着物の襟を整えたという。食事は手を叩くと、山荘の裾野に並ぶ家々の女性たちが、お銚子つきのお膳を持ってきたという。「お願いしたわけではない」と言い、後年訪ねる機会があって訊くと、「当番を決めてお膳を運んだ話は、親から聞いています」と応えた。嘘ではなく本当だったのだ!
話に興ずる森敦(69歳ころ)。
 撮影者不明。平凡社の封筒に入っていた。年齢もはっきりしないが、病後の顔のように見える。
69歳のとき、軽度の血栓のため、東京厚生年金病院に昭和56年1月14日入院し、27日退院した。病室に回診する医師から、左右の人差し指を鼻の先に、交互に当てるように指示され、初めは麻痺しているほうの指が鼻先に当てるのに時間がかかった。特効薬が効き始めると、徐々に楽に鼻先に届く。嬉しくて暇さえあれば、鼻先に指を当てていた。
 入院中のエピソードを一つ。緊急入院で個室の空きがなく、特別室に二、三日いた。バス、トイレ、応接セットつきの二部屋。看護師さんが採尿の点検にきたが器に尿がない。森敦の『出ないのです」の言葉を聞いて、あわてて医師を連れてきたが、森敦の「手が不自由で、指定の器にできない」の言葉に、医師は笑いながら、「尿毒症なら大変ですからね。心配させないでください」と言ったという。日常会話でも飛躍したり省略したりした。
自宅応接室でのジョニー・タケト氏と森敦(76歳)。
 昭和63年初夏の撮影。手前に並ぶ三個の徳利(「遺品覚書」Parto2「*三個の徳利」参照)には、ジョニー・タケト氏の縁戚の酒蔵で造った生酒が入っている。『われ逝くもののごとく』が第40回野間文芸賞を受賞したが、そのお祝いに、山形は庄内から車で持参した。次の写真の五十嵐智之氏も同道した。
 ジョニー・タケト氏は、同年8月28日、グランド エル・サンで催された「森敦先生野間賞受賞を祝う庄内のつどい」のアトラクション「神代のレジェンド」(演奏ジョニー・タケト)に出演した。
自宅応接室での五十嵐智之氏(左)と森敦(76歳)。
 前出の写真と同じときに撮影。五十嵐氏は、森敦が毎年楽しみにしていた月山祭にも協力していた。現在は「森敦文学保存会」の事務局長として尽力している。
 バックに見える赤いリボン(「遺品覚書」Part8の「赤いリボン」参照)は、野間文芸賞受賞式で贈呈された花束に結ばれていたリボン。記念に飾っていた。
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