014 ありがとう、ありがとうよ
 
 父森敦が亡くなったときの約一か月のことを申しあげますと、父は七月四日に厚生年金病院に入院して一週間ほどで退院し、最期の日となった七月二十九日まで自宅で過ごしておりました。その間の一か月のことが私としては頭にいっぱい残っております。なぜかというと、それ以前の父とその一か月ほどの父とはちょっと違っていたような気がするのです。『われ逝くもののごとく』を書いていたころから「天命を知った」という言葉をしばしば口にしていましたが、その言葉をその一か月ほどの間は一回も口にしていないのです。そのかわり「ありがとう、ありがとうよ」という言葉がさかんに出てきました。そのころの父は実はビールをあまり飲めなくなっていたのですが、「きょうはほんとうにビールがおいしく飲めた。二杯も飲めた。ありがとう。ありがとうよ」と言ったりします。かと思うと「ゆうべはほんとうによく眠れた。ありがとう、ありがとぅよ」と言ったり、「きょうは気分がよくて、午後から『君、笑フコト莫カレ』を書くことができた。ありがとう、ありがとうよ」と言ったりする。毎日のようにそうした言葉を口に出していました。いま考えると、その「ありがとう、ありがとうよ」という言葉には、父が自分の生命への感謝の気持ち、あるいは自分が七十七歳まで生きた感謝の気持ち、折々お世話になったみなさま方への感謝の気持ちといったものがこめられていたのではないかと、ふと思ったりします。
 『われ逝くもののごとく』を書き終わったあたりからふっきれた感じで、あれも書きたい、これも書きたい、あの題材を短編にしたいと言って創作意欲に満ちあふれている感じでした。弱ったからだで、渾身の力をこめていろいろと本をまとめていました。この最後のひと月のあいだ「二つのものを書き残したいんだ」とよく私に言っていました。その一つは「文学界」に連載を始めたばかりの、『君、笑フコト莫カレ』で、これを最後まで書きあげたいということでした。これについては『われ逝くもののごとく』と同じような長編にする構想をもっていたので、その言葉を聞くたびに、ほんとうにそこまで書ければいいなと、つらい思いで聞いていました。もう一つは『杢右ヱ門の木小屋』です。これは長いあいだにわたって三回ほど書きかえています。三回も書きかえたということは、父が生涯をかけて考えてきた『意味の変容』を小説のうえで実現させるという意味合いがありました。父はその三つの『杢右ヱ門の木小屋』をもとにして『意味の変容』の続編の書きおろしをしたいということでした。これもすでに準備を進めており、死ぬまでにはぜひ書きあげたいんだと言いながら、こうも言っていました。「書きたいんだけれども、どうも馬力が出ないんだ」私はその言葉をつらい思いで聞きました。
 父は小説『月山』で世の中に出たわけですが、そのころのことを思い出すと冷汗の出ることがあります。当時の父は小説を書くようにと同人雑誌からお誘いをうけると、じゃあ書きましょうと筆をとるのですが、電車の中で小説を書く習慣がついておりました。山手線の電車に乗り、ぐるぐる回って書くのです。いったん書きあげてもそれで終わりというのではなく、それを何回も何回も書きかえる。あたかも自分の筆をメビウスの帯の上にのせて満足のいくまで書き続けたいという様子でした。そのうちに「いかん。これはだめだから棄ててしまう」と、さんざん書きなおしたあげくにそんなことを言うわけです。私はやっとの思いで父からそれを取り上げ、同人雑誌の編集部にお渡ししました。
 やがて初校のゲラが送られてまいります。父はそのゲラを持って観光バスに乗ります。当時は校正するときは観光バスに乗るという習慣がありました。あるときは千葉県の方の観光バス、あるときは富士山のふもとまで行って帰ってきます。その間、景色なんか見ないで、ゲラが真っ赤になるくらい赤を入れる。当時は活版なので、私の目から見ても半分は組みかえだなということがわかりました。そのくらい真っ赤にして満足なのかというと、そうではなく「これはだめだから、編集部には申しわけないけれども破って棄てる」というのです。それでまた私はびっくりして、なんとかそれをおさえてやっと発表の段階にこぎつける。そういう一連のことを経てまとまったのが『鳥海山』です。父は作品を同人雑誌の「ポリタイア」「立像」に発表していましたが、これらの作品はいずれも書きかえ、書きかえしてきびしく自分を律して書きあげたものです。父は最後まで自分の書くものに対してはきびしい態度で一生を終わったかと思います。そのきびしさも、自分だけにきびしいのなら周りに迷惑をかけないのですが、皆さんに対してもたいへんきびしいことを言い、ギュウギュウとやられたあげくもう書けなくなったという伝説まで生まれるありさまでした。
 そういう父ですが、生活のうえではやさしい人と皆さんから言われていたようです。たしかにある面ではやさしい人で、そのために放浪もできたのではないかと思っています。各地を放浪していても自分で炊事らしい炊事のできる人ではないので、何も食べないでじっとしている。そうすると周りの人たちはあの人はいったい何を食べて生きているのか心配になり、近よってきてタマゴや野菜をめぐんでくださる。それでなんとか命をたもっていたということのようでした。私の目から見ても、うらやましいような人徳というのでしょうか、そういうものをもっていました。父が世話をしてほしいと言うわけではないのですが、こちらの方から世話をしてあげたくなる。私が養女になったのも、私自身がそういう人間のひとりだったからでしょう。いまも申しあげたように、放っておくと書いたものも破いて棄ててしまう。私はそれが惜しくてたまらないから、おせっかいをやく。私も多少、編集や校正の技術をもっているものだから、その面で助ける。その結果、養女になったようなぐあいで、私も巻き込まれた人間のひとりかもしれません。
 父は最後まで自分に対してきびしい人でした。しかも、その人生は伝説に満ちている面もあり、あるいは間違って伝えられているような部分もございます。私なんかも、時に、そうじゃないんだと言いたいときも実はあります。父のそういう部分をこれから少しでもはっきりさせてあげる、正してあげることが私の務めであるし、森敦の文学の全貌を世の中の皆さん方にお伝えする務めもあるのではないかと思っています。
追記
 「ありがとう、ありがとうよ」は、一九八九年九月二十六日、東京会館で催していただいた「森教さんを偲ぶ会」での挨拶を、緑川恒夫さんが文章にしてくださいました。
 実は緑川さんは、この文章をまとめあげた数日後の四月二十五日、突然あの世に旅立たれてしまいました。
 訃報の知らせを聞きながら、二、三日前に電話で聞いた緑川さんの意欲に満ちた元気な声が思い出されて、信じられませんでした。
 父森敦は、緑川さんには、並の人とは違う才能があると言っておりました。残念でなりません。
 緑川さんは、私のまとまりのない話を立派な文章にしてくださいました。「ありがとう、ありがとうよ」と、父森敦ともども申し上げます。合掌。
出典:立像 平成2年7月25日発行
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