015 不思議な人 |
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松岡隆夫さんの死を知って、ふるえが止まらなかった。弥生夫人の「駄目でした……」の一言のひびきは、なまなましく今も聞こえている。そして、「静かでしたよ…」の言葉も、弥生夫人の澄んだ声のままで耳の底に残っている。
「駄目でした」と「静かでした」が気になって、ずっと考えていたのだが、あるときふと思いついた。そうだ、松岡さんを想うとき、いつも父森敦と重ねて考えている、と。
二年前の七月二十九日に急死した父の最期も、「駄目でした」「静かでした」の言葉がぴったりであったような気がしてならない。
父は休力のなくなっていく中で、こう呟くことがあった。あれもこれも書き残しておきたいのに、腕力がなくなってしまってね。腕力がないと、書きたいことも書けないんだ。
実際、本気になればなるほど、魂をこめればこめるほど、筆圧が強くなった。長年の放浪に持ち歩いた一枚板の飯台には無数の文字が、筆圧が強かった証として残っている。
父は筆圧と言わずに、腕力と言った。その腕力がなくなったという。私は動揺せずにおれなかった。駄目にならないでと祈る思いだった。それから間もなく、本当に息を引き取ったとき、駄目だとは残念無念という意味をこめて、尋ねられるたびに、「駄目でした」と言っていたような気がする。
松岡さんも、書きたいことが、まだまだたくさんあったにちがいない。書きたいのに、腕に力が入らなかったにちがいない。その松岡さんの気持ちが、弥生夫人の「駄目でした」の言葉にこめられているのだと思う。
父はこうと思ったら信念を持って突進するし、私も生来の性格もあって意地っ張りである。この二つのエゴが、しょっちゅう火花を散らしていた。一年じゅう毎日、朝食は八時、昼食は十二時、夕食は九時にきまっていて、朝と昼は私が勤めに出ている都合上、時間どおりに食べられるのだが、問題は夕食の時間だった。残業をしなければ、六時には家に帰れる。父は来客がなければ独りぽっちなので、私の帰りを待ちかねて、紅茶を飲みながらのおしやべりが続く。私は時計ばかりが気になる。七時から八時までは私の時間ときめていたので、七時になると、断固として席を立つ。すると、父は、もうちょっと、いいじやないか、と言って引き延ばしにかかる。やっと、五分、十分ほど損をして自分の部屋に入る。書きものをしているうちに、八時に近づく。十分前になると、リーンと電話の音。
困ったことに部屋ごとに電話機があって、社内電話のように話し合えるのだ。もうすぐ八時だよ、と父。もう十分は私の時間よ、と私。やがて八時になる。リーン。八時だよ、と父。分かったわ、と私。八時を回ってから十分が過ぎる。リーン。用意を始めないと九時に間に合わないよ、と父の断固とした声。私も、九時に間に合わせるわよ、と八時二十分まで意地でも自分のことをする。
夕食の準備に必ず一時間はかかると思い込んでいる父も父なら、簡単料理を企んで時間短縮をもくろんでいる私も私である。
日常のすべてがこうしたことの連続だった。二人の火花が華やげば華やぐほど、父は元気だった。
ところが、死に近づくほどに、父は静かになった。日常の華々しい火花も消えて、静穏な時が流れていた。死は静止することだと知ったのは、父のお骨を抱えて独りになったときだった。
松岡さんの静かになっていった様子が、父の最期と重なって目に浮かんでくる。この静かさは神秘的で、なぜか、荘厳という言葉に置き換えたくなる。
松岡さんは、父のいなくなった家に何度か来てくださった。松岡さんと父は気の合う仲だったので、父から松岡さんのことを聞かされていた。聞かされているうちに、父の、松岡さんを思う気持ちが乗り移っていたらしく、松岡さんとは話がはずんだ。気がつくと、松岡さんに訴えているのだった。父の声がしないのがつらいとか、静かすぎるのが怖いとか、眠れないとか……。
私の話を聞くだけ聞いた後で、松岡さんはにこやかに、ご恩返しがしたいというようなことを言い出した。父にご恩返し?
松岡さんがこう続けた。森さんからほめられたり、激励されたり、それがどんなに力づけられたことか、とても嬉しく思っている、と。そしてまた続けて、だから今度は、あなたの書いたものを読みたい、と。あなたとは、私のことである。
父は松岡さんからいただいた作品のすべてを丹念に読んでは、松岡さんに電話をかけていた。電話をかけても気がおさまらないのか、いつまでも作品の魅力にひたっているのか、私に言うともなく言うのだった。
えらいねえ、松岡さんという方は。独自の世界を書こうとして頑張っている。そのねらうところが、奥深いんだなあ。奥へ奥へと構築していくところが、すばらしい。文章にリズムがあってね。それに、あの方は、詩人にして、哲学者でもある。松岡さんには、あのまま書き進めてもらいたいなあ。
父は松岡さんと語ることを喜びとするようになった。松岡さんもわざわざ訪ねてきてくださって、父に刺激を与えてくださった。そんな日の夜は、きまって父は松岡さんの話をした。
松岡さんには、とてもすばらしい愛読者がおられるんだよ。いい方なんだよ、その奥さんが。あの奥さんが愛読者になって、松岡さんを支えておられるかぎり、まだまだいいものを書かれるよ。
父は口癖のように、愛読者を一人持てばいいんだ、と言っていた。父の愛読者一人論を言い換えれば、こうなのだ。一人の読者に感動を与えればいい、一人を、うならせれば多くの人もきっとうなるにちがいない。
父が「月山」を書いていたとき、いっこうに完成しない様子を見かねて、電車の中で書いた下書きを四百字詰め原稿用紙に写すことにした。ちょうど中ほどの、源助のじさまが十王峠を越えて牡牛のタネを運んでくる場面で、文字が涙で霞んでしまった。どうしたの?と言う父に私は、これで大丈夫!と卓を叩いた。そうか、感動してくれたのか。その父の弾んだ声が忘れられない。
松岡さんにも、それに似たことがあったと思う。
松岡さんから、あなたの書いたものを読みたい、と言われたことについては先に書いたが、そのとき私は、松岡さんに甘えていいかどうか躊躇した。いくら躊躇しても、嬉しいと思う感情は押さえられない。恐る恐る書きためていた中の一つを取り出して、松岡さんに読んでいただくことにした。 ノ
ある日、松岡さんから一冊のノートが送られてきた。その表紙には、「雑記帳」とあって、その横にこう書いてあった。
終わりののち
鳥たちが飛びたったあと
なにか言い残した一と言のために
一羽が来てとまる
松岡さんは血痰を吐きながら、私の小説を繰り返し読んでくださったのである。私に書いてくださった一冊のノー卜は、松岡さんの遺作の一つにちがいない。そこには、松岡さんの創作ノートのような要素があるからである。ノートはこう書き出している。
「『さようならを言うために』をまた読み返し始めました。
私は用心深いというのか警戒心が強いというのか、小心な上に、妙に自己流に正確を志す所があって、正確に言おうとすると、自己流になってしまう。それはよく自覚しているので、ひとさまの作品を読んで、批評などいうことできないこと知っているので、読ませていただいて(読む意志があって)感想を述べるのに、私の作品にしてしまって、私流に書き直して読むという所があります。勿論、その作品の志向する所に添い、言わんとする所を汲んで、ではあるのです。……(平成二年十一月十八日)」
「私の作品にしてしまって、私流に書き直して読む…」それだからこそ、松岡さんの創作ノートだと思っている。それにしても大変な僥倖をいただいたものである。
父森敦も不思議な人と言われることがあるが、松岡隆夫さんも私にとっては不思議な人なのである。 |
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