001 芥川賞の森敦氏 人生二度踏む決意
報知新聞 昭和49年1月19日(土)
 今回の芥川賞は、一風変わった老新人、六十二歳の森敦氏の小説「月山」(がっさん)に与えられた。
 「年が年だから辞退した方がいいといってくれた人もいますがね。賞もらうと書かしてくれるでしょう。ぼくは、いますごく書きたくなっているからもらうことにしました」
 十六目午後八時半から東京・新橋の第一ホテルで受賞決定後に開かれた記者会見。文化部記者たちと“へんな新人”のナマクラ問答は珍無類だった。
 −経歴をもう少し詳しく−という記者の質間に対しては・・・。
 「へえー、ぼくの生まれが天草になってるの。どうして古山さん(高麗雄氏。受賞作「月山」掲載の雑誌「季刊芸術」編集長。芥川賞作家)は天草と書いたのかなあ。長崎だけど何町かな?」
 −第一高等学校に出たり入ったりということですが、何回くらい?
「さあ、覚えてないなあ。小島くん(信夫。同じく作家で友人)なら知っていると思うな」
 −全国を放浪して歩いたのには何か動機でも? 何年ぐらい?
 『十年前ぐらいに東京へきたことは確かだけど…。小島くんにきいてみてよ。奈良に十年もいたかなあ。坊さんよりお経は読めますよ、免許はないけど。志賀直哉なんか来てたなあ。小林秀雄? 日本浪漫派には関係しませんでした。文学の材料にするつもりもなかったし…。ジャーナリストのみなさんは、何か意味付けしないと気がすまないらしいですな。それで、いろいろな伝説がぼくに関して作られてしまう。放浪に自覚症状はないんですよ」
 −「月山」の雪の描写を、選考委員がたが絶賛してましたが、終わりのところで友人が訪ねて来たりするのは、急に俗っぽくなって裏切られるといってましたよ。
 「そりゃあ、古山さんのせいだ。ゆうえんに終わらせる手だてをぼくは知ってたんだ。友だちから手紙がくるが、現れるのか現れないのかわからないっていうところで…」
 (ここでわきにいた古山氏が森さんの小説はいつも脱俗しているので、俗なところにおりてみなさいとすすめた、と説明)
 −三十年ぐらい文学を離れていて、よく書けましたね。
「坂口(安吾)太宰(治)北川(冬彦)なんて友だちがいたからね。毎目、コップ一杯の血を、一週間ぐらい吐きましてね。それまで、玲瓏(れいろう)玉のごとき声がガラガラになって、こりゃあ、終わりだなと思って観念した。それで過去の任意の時点を、現代にして、人生を二度踏んでみようと思ったんですよ」
 始発に近い、早朝の山手線の電車の中で原稿を書くという森氏にとって、現在と過去の区別はもはやなくなっているようにみえる。
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