003 わが「月山」、その背景
日本読書新聞 昭和49年4月1日(月)
長崎と私
 私が長崎に生まれたのは実は余り自慢になることではなくて面目次第もないことで生まれたんです。私の母方の親類どもは皆、長崎で育ち、現在もいるんじゃないかと思います。
 親類達は僕につきあわないといっているらしいんですが、僕の方からつき合わないんで話は逆なんです。戸籍を調べたことがないんで嘘かも知れないんですが、私の父の兄弟の長男がある時、山に葡萄かなんかを取りに行って、持っていった自分の斧だか鉈(なた)で失敗って自分の眉間をわって帰ってきた。それでじいさんが、そんな軟弱な奴には家なぞ継がせられん、軟弱な長崎へでも行って、あすこは遊芸が盛んだから習って、芸者と一緒になって一生を送りでもした方がいいという事になった。その後を継いだ僕の親父は何だか雄渾なる志を抱いていたというんですが、結局は日露戦争で本当は大儲けをする筈が、その金がどさんと入るという日に戦争が終ってこれまた財産をなくしてしまった。家や山が三重にも四重にも抵当に入っていて、その長崎の兄の所に失意で行ったのかどうか、つまり零落の果てに長崎へ行って僕が生まれた次第なんです。
 だから、長崎というのは丸山というところがあるとか、石畳の坂道がたいへん多かったとか、ものすごい暑い時間があって、それが有名な長崎の凪であると教えられた記憶ぐらいで長崎を去ったわけです。
 おかげで原爆に会わずにすんだわけで、もし僕が長崎に居たらきっと原爆にやられてしまったと思います。というのは飛行機の爆弾なんかが落下してくると、身体はガタガタ震えている癖に、ああ、やった、やったという気持ちで全然逃げようとしないんです。だから、きっと駄目だったと思います。
 それから、朝鮮に渡ったり、国内もあちこち住みました。ところが、どの土地も、どの土地も僕には異和感は感じられないんです。例えば、言葉一つとってみても訛りとかイントネーションの違いでなかなか分かりにくいんですが、馴れると同じなんですね、その言葉の根が。おかげで僕は何処に住んでも自分の故郷のように思えて幸わせ者として今日まできたわけです。
放校と放浪
 僕はよく放校されたと云われているんですが、これは全くの間違いです。確かに中退はしていますが、放校というのは、女で云えば振られたことで、決してそうではなく、私の方からある思想というか、反思想的思想によって勝手にやめていったわけです。あの頃、学校を中退するというのは一種の流行りで、多くは左翼の人とか右翼の人で、私の場合はダンディズム、つまりシャレとデカダンスつまり頽廃という信念によってやめたわけです。
 勿論、現実に吉原に行くというようなことではなく、あくまでも断固たる思想としての頽廃です。
まあ、直接の契機というかエピソードは、その学校で私の先生が教科書は新しいものを使って新鮮な気持ちで勉学に臨めというんです。ところが、僕は酒を飲むし、煙草も吸う。お金は余りないし、そこで先輩の使った古い教科書を買ってきた。いろいろ書き込みがあるんです。例えば、赤線が引いてあって“ここにシャレあり”なんて書いてある。すると、授業がそこまでくると、先生はシャレをいう。僕はおかしくなって笑ったんです。先生は自分が言ったシャレが面白くて僕が笑ったと思ったんですが、そうじゃなくて千変一日の如く授業をしている、そのことを笑ったわけで、そういうつまらない学校にはいる必要はないという数人の仲間と語し合ってやめたわけです。
 ところが、ずっと後になって、ある大会杜へ入って行ったことがあるんです。すると、驚くなかれ大きな机にふんぞり返ってその内の一人がいるんです。これはおかしい。高等学校を中退した奴がこんな大きな会杜の幹部である筈がないと思っていると、相手は私に気づかない振りなんぞして、急に書類をめくり出したりするんです。そばに行って声をかけると彼は小さな声で「向島」「向島」というんです。まあ、後で話を聞くと、誠に申し訳なく面目次第もないが、自分の意志ではなく、父や母の意志で高等学校卒業検定試験を受けて、苦労して卒業してしまった、というんです。それで、大きな会社で給料もいいことだから遠慮なくご馳走になって一晩楽しく過ごさせてもらってきたこともあります。
 又、僕は、よく放浪した、放浪したと云われるのですが、実はいたるところに定住したといった方が当っています。私の顔をみればわかるように放浪なぞは無縁なんです。実は自分ではそうとう数学的、抽象的な考え方は出来るにもかかわらず、インフレに対する計算を間違った結果、放浪にも等しきことになったわけです。
 なぜかと云えば、僕は男が十年働けば、一生飯は喰えるくらいの稼ぎはやってみせると思っていたんです。事実、大はかなり一流と呼ばれる会杜から、小さな会社まで種々勤めました。そこで、たいていはじっとして遊んでいることにしているんです。
ところが、社長ともなり、会長ともなる人がいて、彼らは一様に風雅の志が出て、僕に話すんです。あるいは多少の文学の心得というのが出来て彼らにとっては誇るべきことなんです。よせばいいのにそれを僕に何々を知っているんだと喋べるんです。そうすれば、しめたもので僕にとっては赤子の手をひねる如しで、僕は非常に可愛がられるようになる。
 どこの会社に勤めていても五年くらい遊んでいると、その内に必ず天変地異が起ってくる。ちょうど思わざる鳥海山の噴火のようなことが。その時、一丁お前やってみないかという機会が出るわけです。そうしますと、どちらかというと僕は博打運の強い方で、かなり思い切った断固たることをやるわけです。
 僕を杜員にしたばかりに杜長や会長と地位が逆転することになる。だいたい十年勤めたらば遊ぶというのが私の信念であり、事実そういうことを今日まで繰り返してきたわけです。
月山と芭蕉
 私は十年を何もかも忘れて、日曜も祭日もなく働いたのと、何もかも忘れて遊んだ十年が交錯してきているわけです。それに抽象的数学的にものを考えることは割と優れているにも拘らず、不思議なことにインフレに何回も当っているんだけど、それが分らない。実は最後に遊んだその十年は山形県の月山および鳥海山のみえる所にいたんです。お金をそこの家の奥さんに渡しておいて全部これを使ってくれといっておいたんです。ある日、一体今、いくらあると尋ねると二万円しかありません、というんです。それなら、それで早く言って呉れ、今ごろ二万円じゃどうしようもない。
 まあ、田舎の人は家代々の家宝だと思い込んで贋物の掛物みたいなものを沢山もっているんです。それらのものを読めといってもなかなか読めないんです。だいたい掛物に書いてある字なんてきまりきったものなんで、僕にはたいていのものはすらすら読める。村長となり、町長となり、議員になったりする奴はこういう贋物を沢山もっていて風雅だなんていっている。僕は簡単に急所を掴ってしまうんでずよ。
 ちょうど芭蕉が僕と同じような手を心得ていたとみえて、芭蕉が辿った道を通ってみますと近江商人の通った道なんですね。
一宿一飯なんていっていますがそうとうな金をもらって帰っている。だから月山の一部である羽黒山、そこは宗教的に大勢力をもっていて彼はそこを目ざしたんですね。まあ、今で云えば行商人が集金集めに行ったような形で至る所の名家、それもよせばいいのに俳句なんか読む人達のところを渡っていったんです。僕はそんな作戦はなかったんですが……。だからなくなった時は芭蕉よりひどいことになってしまった。
 まあ、一五、六万円くらいの金をもって、ゆかたを着て、下駄をはいて汽車に乗ったわけです。
そうしたら、そこにおそらく正式な免状をもたない小学校の先生、洋服をきて、聞けば通信講座を受けていて正式な資格を得ようとして、あるいは学制が変わってあらゆる先生がそうなったのか、窓から外をみると生徒が沢山いて「先生、先生」なんていっている。あらゆる先生が席が欲しいから、そんな簡単な身なりだから、すぐ降りると思ってみんな私のまわりに集まってくるんです。そんな思わぬ歓送の中で月山を後にして再び上京したわけです。 --おわり
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