010 風狂めがね
特例、まかり通る
出典:夕刊ニッポン 昭和49年4月25日(木)
 今月二十一日の「ビッグショー」は、島倉千代子をゲストに迎え、初のナマ放送であった。森氏、予定どおり午後六時、NHK101スタジオ入り。
 スタッフが次々とアイサツに来る。「森さん、こんにちは」
 「?」─確かこの世界では、真夜中であろうと「おはようこざいます」が慣例用語だったはず。
 「森さん用の特例用語です」と三ツ橋チーフ・ブロデューサー。
 特例といえば、一、一五五平万メートルというダダっ広い101スタ内に、灰ざらがたった一つだけ置いてあるのも森氏用特例だ。アッチのVTRテレビをのぞき込み、こっちのすみでスタッフに話しかける。出番を待つ間、森さん、かなりめまぐるしくスタジオ内を歩きまわるが、そのたびに、誰かが、灰ざらを持ってチョロチョロ、チョロチョロ。なにしろ、本来ならば絶対禁煙の場所なのだ。NHKもこの“大物タレント”の扱いには苦労しているわけである。
 「お顔がテラテラ光りますので恐れ入りますがちょっとだけドーランを塗っていただけませんでしょうか」
 「ハンカチでふくんじゃダメですか」、おもむろに顔をブルっとやられれば、「ハア、それでもケッコウです」と早々に退散してしまった。森氏、ゆうゆうとタバコを一ぷく。
 「きょうは、島倉さんに何を話すかなあ。タレントっていうのはものをいわんですからねえ。こないだも、フランク永井に“高度成長時代だって騒いだんだけれど、あんたは低音で出発したんだから、その線でいきたいですなァ”といったら、答えが、“ハァ、そうですか”だけ。五分間(「ビッグショー」での森氏の登場時間)が持たんですよ」。
 いよいよ本番スタート。森「ボクは、山形県の酒田で、あなたの公演を聞きに行ったことがあるんですよ。小学校まで切符を買いに行ってネ」。島倉の顔が一瞬パッと輝いた。四分間が持たないどころか、大いに乗ってしまい、スタッフの出す時間オーバーのサインが全く目に入らないほど。
 「今までで一番いいできでした」三ツ橋プロデューサーもご満悦。
 「だけど、これ以上はウマクならんでくださいよ。プロになられると困るんです」とムシのイイ注文をつけくわえる。
 「ボクが芥川賞もらって最初にテレビに出た時“森さん、きっとテレビに引っぱられますよ。だけど、あれでなかなか疲れるからなるべくお出にならん方がいいでしょう”って忠告したのがNHKですヨ。それが一番多く出演交渉してくるんだから」──帰りの車中での森氏のボヤキであった。
マナイタの上の鯉
出典:夕刊ニッポン 昭和49年5月2日(木)
 マスコミの共鳴作用ってことをいいましたが、このままいくとボクは殺されちまいますよ。いまあるものだけでテレビが「ビッグショー」(NHK)に「13時ショ一」(NET)、文化放送の人生相談(注「しあわせのアドバイス」)、それに一回きりのもの、たとえば今度フジでやる山陰地万でSLに乗ってみるなんて企画、週刊誌は連載がひとつに対談のホストがひとつ、そのうえに雑誌の仕事があり、本職の小説があり、さらに勤め(近代印刷勤務)がある。ボクは六十二歳のジイサマですからネ。(その実、森氏はこのモーレツスケジュールをゆうゆうとこなしているように、はためには見受けられる。この辺、仙人、天才と呼称されるゆえんか)
 NHKは、インタビュアーとしてのボクに、タレントの素顔をひっぱりだすリトマス試験紙の役割を期待し、NETでは、タレント森敦のさまざまの形での開花を期待しているんですか。みんな勝手なことをいってますナ。そうなりゃこっちは「マナイタの上の鯉」ですョ。テレビ、ラジオの仕事は、ボクにとっちゃ失敗してもともと。向こうで、もうけっこうといわれれば、元の印刷屋のオヤジに戻ればいいんだから。
 しかし、NHKと民放、それぞれ番組の作り力にちがった趣があっておもしろいですナ。出演しているボクはどちらでも同じようにリラックスしてますがね、NHKの方は、最初からカチッとした額ぶちがあって、一生懸命そのワクの中にはめ込もうとする。またはまってしまいます。民放は、ワクらしいものはあるんだろうが、はまってもはまらなくても別にかまわないという感じ。
 これは、小説の方法でも同じでしてネ。額縁に入らない方がかえって生き生きしてくる場合だってある。完ぺき主義でつくられたNHKの番組だけを見ていればいいという考え方だって成り立つんだが、やっぱり民放の方も喜んでみられている。
 ワクにはまったつくり方、はみ出したつくり方、それぞれのよさがあるからですヨ。    (談)
音楽がわかる若者
出典:夕刊ニッポン 昭和49年5月9日(木)
 四月二十六日、NET「13時ショー」のレギュラー・インタビュアー(隔週金曜)として初登場。この日の「13時ショー」は実験音楽の特集である。本番直前にスタジオ入りした森氏、若者たちの演奏する三味線、琴、笙などにエレキを通した奇妙な音楽に熱心に耳を傾けていた。
 大したものですよ。ああいう音楽が大衆的に受けるかどうかは別にして、あの音楽に合わせて動いていた空手や居合術の人たちとピタッとはまるんですねえ。
 (注 エレキ三味線、エレキ琴に合わせて、沖縄空手道協会・東恩納盛男氏、居合術の紀野実氏が実演をやっていなことを指す)
 実験音楽としてはとてもおもしろかった。ぼくは、ぼくらの世代といまの若者たちとをへだてる最大の相違は彼らが、音楽という伝達手段を持ったということだと思う。ぼくらの伝達手段は、文字、言葉だけだ。当時は、音譜を読む勉強なんて、特殊に音楽学校に行っているものだけがすることで、一高生がそんなことをするなんて、罪悪視さえされていましたからね。
 音譜をよめるだけのもの、自由にあやつれるものと差はあるかも知れないが、とにかく彼らが音楽をわかるということに違いはなない。文字文化だけで生きてきたぼくらとは、隔世の感があるはずです。
 いまの若者層が、音楽という広大な伝達手段を持ったということは大変なことですよ。表面的にちょっと会って、言葉を交わしている段には、その断絶は意識されなないでしょうが、根本的なところで、言葉で表現できなないところで、ぼくらの世代とは埋めようのない違いがあるはず。テレビに出演することで、その違いが何かを見究めてみたいということもあるんですよ。
 ボクだって、出る以上は、何か得るところがなきゃ。そうでなかったら書いてる方がよほど楽だし、得です。
 古くからの友人の中には「おまえは『月山』のような作品だけを書いていればいい。テレビはおろか週刊誌に雑文を書くのもけしからん」と怒っているやつもいるぐらいですからね。
 まあ、これなどは、ぼくが一回テレビに出たら、次から次へと出演依頼が来るというマスコミ特有の共鳴作用とは逆の、森敦神格化作用の心理が働いているんでしょうが…。    (談)
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