035 自分の意見を堂々と述べよ
出典:明るい職場 1975年8月号 昭和50年8月1日
一〇年周期の四〇年
 ぼくは朝鮮の京城中学を卒業して第一高等学校に入ったが、たちまちいやになった。先生の講義なんてつまらん。自分で勉強すればいいじゃないかと考えみずからを一高から放逐した。それに、もう一つの理由は、現在の毎日新聞の前身である東京日日新聞から連載を頼まれたために学校へ行く気をなくしたからでもある。
 ぼくの『酩酊船』が東京日日、大阪毎日の両紙に掲載されてからのち、『月山』が芥川賞を受賞するまでの四〇年問を“沈黙と放浪の四〇年”などという人がいる。
 しかし、事実はそうではない。一〇年光学関係の会社に働いては一年遊び、一〇年土木関係の会社に働いては一〇年遊ぶというふうにして、厳然といるべきところにいたのである。
 それというのも、一〇年働くとあとは生涯遊んでも食えると思い込み、好きな地方を転々として、気がつくとほとんどカネがなくなっている。そこで慌ててまた一〇年働くといった周期を繰り返していたためだ。
 そしてぼくはいま、従業員三十数名という、ある小さな印刷屋に勤めている。
堂々と主張する
 ぼくがかつて勤めたところは第二部上場くらいの大きさの会社だったが、たとえ相手が部長であろうが、社長であろうが主張すべきことは常に堂々と述べてきた。そのためか、非常に下っ端だったにもかかわらず、バッテキされて偉くなったことがある。
 社長が社内巡回などをすると、警戒警報発命などといって、みんな姿勢を正したものだが、ぼくは、そのときはわざと仕事なんかしなかった。そのときわざと仕事をしていたヤツは意外に出世をせず、仕事をしない振りをしていたぼくなんかがグッと伸びたわけである。
伸びたのはよかったけど、ぼくは一〇年勤めたらその職場がいやになって、思い立ったらなんとしてもやろうという性格だから、辞表を出した。
 辞めるときに社長から「どうしてお前は辞めるんだ」と聞かれた。そこでぼくは「一〇年たったら辞めますよといっていたはずです。それを聞いていませんか」といったら、「聞いている。だが、そんなことを冗談でないと思うヤツがいるか」という。
 そこでぼくは、「冗談でないヤツがここにいる。ぼくがパッと辞めることによって、何かクサイ煙が立つようなことがあったら、どこの山奥にいても、出てきて釈明します」といった。
 ある程度の位置になれば、ある程度のカラクリはする。それをオレは引き受けるから心配するなというのが、そのときのぼくの気持ちだった。
集団の外でも声を出せ
 ぼくは、常に堂々と自分の意見をいえる人間であってほしいと思う。
 会社側との団交などの席では、社長に対しても「お前は……」とか、呼び捨てにしている人間が、酒場などへ上役に連れていってもらうと、ガラリと変わってしまう。
 よく酒場などでみかけることだが、「課長!」「部長!」などといって、自分と一緒に飲んでるい人が、課長、部長であるということをホステスあたりに知らせることによって、上役を間接的に喜ばせようとしている。
 いったい、そういう気持ちで自分の仕事を本当にやっているのかといいたい。労働組合という集団の中では声を出せても、仕事の場で自分の考えをいえないようでは、とてもものにはならんと思う。
↑ページトップ
森敦インタビュー・談話一覧へ戻る
「森敦資料館」に掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。