036 今日ただいまをおろそかにするな
出典:小二教育技術 9月号 昭和50年9月1日
 現在、雑誌、テレビなどで大活躍の森敦先生であるが、作家としての半生には、四十年ほどのブランクがある。このブランクこそが、森先生の作家としての骨格になっているように思える。
 今月は、森先生に、そのへんのところをお聞きしながら、合わせて今日の教育についても言及していただいた。
全国紙の夕刊でデビュー
──森先生は、二十歳に満たない年齢で彗星のように文壇に登場し、そのあとフッと第一線から退かれた。その後四十数年たって「月山」で芥川賞をとられ、はなばなしく再登場されたわけですね。ある意味で、たいへんドラマティックで特異な人生を歩んでこられたように思うのですが……。
 
 森 ぼくは、はじめから文学に志していたわけではないんです。ぼくの親父が政治家になりたかった人間だったからかもしれませんが、ぼくも若いときは政治家になりたいと思ったこともありますしね……。ひとたび人間として生まれた以上、なんでもやってみたかったわけです。それで、監獄にも入ってみようと思ったんです。
 幸いにして、ある監獄の典獄が、いまでいう所長ですけれども、この人が入れてくれるというわけですよ。この人がいうには、監獄というのもあなたが考えるよりは清潔なところで、しかも、最も安全な場所だというんです。静かなところでもあるから、入りたかったら本でも持っていらっしゃい、特別待遇で入れてあげますよ、というわけです。こちらとしては、特別待遇というのでは、監獄に入った意味をなさんから、結局監獄には行きませんでしたがね……。
 その後、徴兵検査がまいりまして、これは甲種合格でした。普通ならばすぐに兵隊にとられるところですが、あの当時は軍縮の時代で、何人かは、いらなかったわけです。しかも、いちばん体のいい人は、種馬としてとっておこうということで、(笑)ぼくはついに兵隊に行かなかったんです。
 ぼくは別に軍国主義者じゃないけれども、徴兵を忌避しようなどという気もさらさらなかった。ところが、スポーツなどもいろいろやったせいか、模範的な体だというんで、甲種合格くじ逃れというやつになっちゃったわけです。
 そうこうするうちに、偶然、菊池寛さんに非常にかわいがられることになりまして、それから、横光利一さん、川端康成さんというような人たちを知ったんです。彼らの話というのは、非常におもしろいんですね。それでいろいろ話しているうちに、これらの人たちから認められて、ひとつ書いてみろといわれた。書いて持っていきましたよ、「見てください」といって。ところが、あの人たちは、忙しくて見る暇がない、というんです。見る暇がないといったって、見てもらわんとどうにもこうにもならんといったら、「いや、人相を見れば、およそはわかる。そのくらいのことがわからんで、この世の中を渡れるか」というんですね。
 そんなことがあって認められて、新聞の夕刊に連載することになったわけです。「酩酊船」という題名のものを……。その当時の大毎、いまの大阪毎日ですね、それと、東京日日、いまの毎日新聞ですが、この第一面に連載されたんですよ。
 連載を頼まれたときは、まだ旧制の第一高等学校に籍があったんですが、連載がはじまったときはもう学校はやめてましたね。なにしろぼくは、高校へ入ったと思ったらやめちゃいましたから……。
十年遊んでは十年働くわが人生
──学校生活がもの足らなかったわけですか。
 
 森 うん。なんだこんなつまらんことを教えやがって、と思ったわけです。ろくなことを教えてくれないということがわかっただけでも、入った価値があったということで、やめたんです。
 ぼくの母親もなかなか変わった人で、ぼくにだけは好きなことをさせたい、というわけです。心の中じゃあ、せっかく一高に入ったのに残念だと思っていたかもしれませんが、まあ好きにしろということで……。弟はちゃんと旧帝大を出ましたけれどもね。
 そんなわけで、それから十年間遊んじゃったんです。その間、菊池さんや横光さんがお金をくれました。お金をくれるといっても、もらいに行かなければくれないんですわ。送ってまではくれないんですね。そのかわり、行けば必ずくれましたけれども……。
 その十年間は、それこそいろいろなことをやりました。カツオ船に乗って太平洋の上で生活したり、東大寺や興福寺の境内にいたり、法隆寺に住んでみたり、まあ、そういうようなことをしていたんです。結果は、十年もそんなことをやっていては、金もなくなるし、いつまでも菊池さんや横光さんにもらい続けるわけいかないんで、十年目に勤めることにしたんです。
 いまふり返ってみると、ぼくの場合、十年働いては、十年遊び、また十年働くといったように、ちょうど十年きざみになっていますね。現在も、原稿を書いたりテレビに出たりするかたわら、飯田橋(東京)の小さなな印刷屋に勤めているんです。これで、ちゃんと、一か月に二度なり三度行っているんですよ。それなら重役か社長かというと、そうじゃあない。ただ、ぼくが行かなければ金がまわらんわけですよ。それで、手形の落ちるときなんかに出かけるんですけれどもね。
今日ただいまをおろそかにするな
──十年きざみの人生というのも、このせちがらい世の中を考えると、ずいぶん浮世離れした話に思えるのですが。
 
 森 だけれども、ぼくは、少々遊んでいても十年間働いたら、一生それで食えると思ったんですよ。それがそうならなくて、十年ごとの繰り返しになったというのは、インフレの計算をまちがえちゃったからなんです。ぼくは、これでわりと数理には明るいんですけども、そこらを計算ちがいしてたんですね。
 その間、幸いにして、昔ぼくが書いたことをおぼえている人がいまして、これがぼくに原稿を見てくれなんていってくるんですわ。ぼくに原稿を見せたからといって、文壇に出られるとは、彼らも思ってはいなかったでしょうが、それでも、まあ持ってくる。また、昔書いたことがあるめずらしいやつということで、ジャーナリズ
ムからもたえず注文がきていましたからね。こうなると、文学から離れられないことになってくる。
 そのうちに、ぼくの文学のうえでの友人たちが、芥川賞、直木賞をとるようになる。まあ、だんだんえらくなるわけですな。それで、そういう連中が、また、編集者たちに話すから、新しい編集者たちも覚えていて、書く気があるんなら書いてみないか、ということになったわけです。その後、東京に出てきたんですが、そのとき勤めたのが、さっきいった印刷屋で、そこで、ぼくのまわりにいる若い友人たちが出した同人雑誌の印刷をしていたんですね。そのうち、その中の雑誌から二つ三つ注文を受けたんてす。短いものでもいいからということで…。何枚ぐらい書きましたかねェ、五枚か十枚書いたんじゃあないですか。で、「なんだ、書かん書かんといって書くじゃないか」ということになっちゃた。書くのなら本格的に書いてみてくれ、ということになったわけです。それでまず第一に書いたのが「月山」なんです。印刷屋に勤めていなければ書かなかったでしょうね。まあ、書かんわけにはいかんのですよ、なにしろ、相手はお得意様なんだから。(笑)
 
──先生の場合、よき友人にも恵まれたといえるんでしょうね。
 
 森 そう、さっきもいったように、インフレの計算をまちがえて、いよいよ金がなくなるというときでも、不思議に人が手をさしのべてくれましたね。これは友人がいたからですよ。だから、三度の勤めができたわけです。かといって、いつも人が手をさしのべてくれるという保証があるわけじゃない。ほんとうにさしのべられてみなければ、だれが手をさしのべてくれるかわからん。そういう気持ちはありましたね。こういうことを考えて日々を生きておると、ぼくは、相当に楽天的な性格だけれども、一期一会というような気持ちになるわけです。人生における“出会い”の重要性ですね。そうすると、今日ただいまをおろそかにするな、ということになるわけです。これは痛切に感じますね。ただこれは、悲愴な顔をして、何かをさがし求めているのとは、ちょっとわけがちがいますがね。
いまの日本の教育は一律悪平等主義だ
──いまの日本の教育については、どうお考えになりますか。
 
 森 そうねェ。端的にいって、一律悪平等主義という感じがしますねェ。能力差があることをはっきり認めて、そのうえで、適材適所をはかる、というような形にする必要があると思うんですけれどもね。
 この間、映画監督の黒沢明さんと会って、いろいろ話を聞いたんですけれども、ソ連なんかすごいそうじゃないですか(編集部注・黒沢監督は、日ソ合同製作の映画撮影のため、一年ほどソ連に滞在)。できる子には小学校の段階から、「アンナカレーニナ」でもなんでも、丸のままどんどん読ませるそうですね、抜粋じゃなくて。とにかく、できる子にはそれなりの教育を徹底的にほどこす、ということらしい。そして、もうどうせついていけない子供は、労働英雄にするらしいね。つまり、ダイコン二十本つくるやつは、一本作るやつにくらべてえらいんだ、ということで、勲章をもらえるような観念に押しやっているわけです。
 とにかく、能力差があるということを大前提にして、そのうえで、それぞれの子供の能力を最大限に伸ばすということを、徹底してやっているんですね。
 ぼくは、黒沢さんにこの話を聞いて、これは十年たったら、ソ連と日木の間には、すごい差ができると思いましたね。黒沢さんも、同じような心配をしていたけれども……。日本はその点、かなりあいまいなところがあるでしょう。
 
──まあ、タテマエとホンネみたいなものがあるようですねェ。何かいうと、それは平等に反するということで、叩かれちゃいますから……。
 
 森 だから、一律悪平等主義だというんだ。勉強ができるというのも能力のうちだが、人が一本しかダイコンを作れないところを、十本作れたら、これはもうえらいんだということを、定着させなければいけませんよ。そうでないと両方とも殺しちゃううことになるでしょうが。
 ただ、ソ連がそういう形でやっているといっても、それをそのまま日本にあてはめられないやねェ。ソ連ほど広大な土地もないし、それに、人間的な円周も小さいですからね。小さいから、自己矛盾が簡単に起こってくるわけですよ。器が小さいんだね。
小学校の先生はもっと優遇せよ
──最後に、現在の小学校の先生方に何を望まれるか、お聞かせください。
 
 森 ぼくは、いまの日本の教育を考えたとき、小学校の先生がいちばん重大な責務を担っていると思うんです。小学校というのは、なんといっても、基礎なんですから……。だから、小学校の先生に対しては、給与などの面でも、もっと優遇してあげていいと思うんですよ。それだけ、たいへんな仕事なんですからね。そのかわり、小学校の先生が変なことでもしたら、絶対に許さん、厳重に罰する、というようにすればいいんです。それこそ、信賞必罰を徹底したらいいと思うね。
 とにかく、小学校時代の教育というのは、人格形成などにもたいへん大きな影響を及ぼすものなんだから、その担い手である先生方も、そのくらいの覚悟で身を処してもらいたいと、ぼくは思いますね。
もりあつし 1912年1月熊本県に生まれる 旧制第一高等学校中退 そのころ全国紙の夕刊に作品「酩酊船」を連載 その後各地を放浪 十年遊んでは十年働くという生活に入る 1973年作品「月山」にて第七十回芥川賞を受ける 以後現在に至るまで雑誌やテレビで大活躍
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