072 熊野川の夕焼け 作家 森 敦
出典:関西電力だより No.27 昭和53年9月25日
 戦後もまだ間もない頃であった。私は東北地方で放浪生活を送っていたが、そんな私を母だけは全幅の信頼を置いて見守っていてくれた。ところが、その母がやがて高血圧症に苦しみ、「どこか暖い所で療養したい」と言うようになった。かつて、こうした頼み事をしたことのない母だっただけに私も大いに心を動かされ、たまたま友人が管理職をしていた三重県尾鷲市の電源開発事業に職を得て、雪の酒田市を後にした。しかし、暖い土地でささやかな親孝行ができるという期待も空しく、母は病が悪化し他界した。
 これで、私はわざわざ尾鷲で働く必要はなくなったわけだが、母と死別した悲しみを振り払うように熊野の上流へと分け入った。
 熊野川は上流の十津川、北山川の流れを集めて大を成しているのであるから、実際には和歌山、奈良、三重の三県に流域をもつ、紀伊半島を代表する大河である。この豊かな水脈に注目した電力会社や市町村は大規模なダム建設計画に着手した。私が仕事を始めた頃は、十津川はすでにほぼ開発を終わり、より規模の大きい北山川の開発が緒についたばかりであった。私たちは、ダムによって北山川から古川、銚子川、中川へと流域を変えながら、尾鷲により多くの水と電力を供給する分流案の実現に微力を尽くしたのであるが、その間、火力発電が盛んになり、水力発電が補助的となって、一本の川にダムを階段状に配置する本流案が中心となったのであるから、大規模開発とは難しいものである。
 先頃、私は尾鷲市から招かれて、当時一緒に働いた人々と再会し、思い出話に花を咲かせた。立派に完成した坂本ダムなども見せてもらったが、延々と続くすばらしい道路と満々と青い水をたたえた湖からは、元の風景を思い返すこともできない。道路の傍にまとめて置かれた地蔵や道祖神がわずかに湖底に沈んだ村々の名残りを留めているだけである。
 しばし感慨にふけっていた私は、全天を焦がす夕焼けに驚かされた。体の芯まで焼きつくすような見事な夕焼けである。かつてプロペラ船で北山川、瀞八丁を経て熊野川を上り下りした頃の夕焼けは、黒々とした地底から地表の裂け目を見上げたように、かすかな朱色が一筋、二筋見えただけである。人造湖の表面が巨大な鏡となって谷底の隅々まで染める夕焼けの中で、私は過ぎ去った日々に思いを馳せながらいつまでも立ちつくしていた。
(談)
↑ページトップ
森敦インタビュー・談話一覧へ戻る
「森敦資料館」に掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。