073 誌上VTR 母は今も生きていて鼓舞激励してくれる
出典:NHKおかあさんの勉強室 昭和54年3月1日
幼稚園行きを反対した父
 生まれたのは長崎ですが、もの心ついてからは朝鮮の京城、現在の韓国のソウルに育ちました。
 この京城というところは官僚の街で、どこの親も子どもを官僚にさせようと思っている。ですから、今から六十年も昔であったにもかかわらず、今でいう教育ママがそこいらじゅうにいたのです。私も子ども心に、ペスタロッチとかフレーベルといった名前を、そういった教育ママたちの口から聞いた覚えがあります。
 幼児の頃からこんな環境にいましたので、幼稚園へ行くのを楽しみにしていました。幼稚園もいわば学校ですからね。
 ところが、その楽しみにしていた幼稚園なのに、私の父は行ってはならないと言うのです。なぜ行ってはならないのか。父の考えはこうでした。
「幼稚園には保母さんがいて、たいへん子どもをかわいがってくれる。それはいいのだけれども、小学校へ行ったときに先生に甘えるくせがついてしまう。この甘えるくせというのは最も教育上よろしくない。だから幼稚園は行かせない」
 私の父は厳然とした人で、“教えて厳ならざれば師のあやまり”という言葉を言葉どおり実践しようとした人でもありました。
大声の素読
 幼稚園を父から禁止された私は、塾へ行かされました。塾といっても現在のような受験塾とはわけが違います。私の行った塾というのは漢学の塾でした。
 小さな家で、菅原という先生が論語の素読を教えてくれたのです。私の記憶では、小さな机に大きな論語の本、そして木版のような大きな活字です。もっとも、大きく見えたのは私自身が幼児であったせいかもしれません。
 机にすわり、大きな論語の本を広げます。先生は私の前にすわり、手には細い竹の棒を持っています。そして、“子曰く……”と、活字を竹の棒でなぞっていくのです。私もそれに合わせ、声をあげながら素読するわけです。
 このとき私は六歳でした。ですから、漢字を読んでいるのではなく、先生が読んだ言葉を言っているにすぎない。それでももし読み間違いをすると、実際は言い間違いですが、その文字の場所に色紙をちぎってツバでひっつけるのです。ここを間違えた、という印です。でも、なにをどう間違えたのかわからない。とにかく字を読んでいるわけではないのですから、私にとってこの印は何の意味も持っていないのです。
 それでもだんだん読めてくるようになりました。この塾で教える量はそんなに多くありませんから、全部丸暗記してしまう。そして塾の行き帰りに声をあげたものでした。
 なぜ父が私を漢学の塾へ行かせたのかというと、父自身が幼少の頃、このような教育を受けたらしいのです。しかも、私の漢学の先生である菅原という人は、私の父を先生と呼んでいましたから、父の弟子であったのかもしれません。
 先生と呼ばれていた父が、なぜ弟子の菅原さんに私をあずけたのか。実は、これにも理屈があるのです。医者というのはかわいい自分の子どもはみない。また、昔の漢学者というのはどこかえらい先生について厳しく教えてもらう、ということで、これも甘えてはならないという考えからきたもののようです。
 父は威厳がありましたし、めったに私のほうへ近寄ってはきませんでした。そして大きな字を大声で読めと言うのです。大声で読めば自分ばかりでなく、まわりの人も勉強になるし、もし間違っていれば、まわりの人が注意してくれるというわけです。私は父の教えどおり大声をあげて読みました。
私を得意にさせた母
 父は私の前にあらわれることがほとんどありませんでしたが、母は正反対でした。
 私が菅原先生の塾で漢文をならった最初の日に、家に帰ってみると、なんと塾にある机、竹の棒まで同じものが備えてあるのです。もちろん母がしたのですが、母は、「私は一度も論語というのをならったことがない、私にひとつ教えてくれないだろうか」と言うのです。
 私の母は赤十字杜に入っておりまして、日露戦争の当時は従軍看護婦をしていたとのことでした。それ以降に女学校をでていますから、一度も論語をならったことがない、ということはありません。当然、知っていたはずです。
 私は母からのこの申し出に得意になりました。そこで塾でならうような形式をとり、私が先生となって論語を読むわけです。これ以後、私の母は私の生涯を通じて“ならい”にまわってきたのです。私が小学校に入ると黒板を買ってきました。そして教えてくれ、と言うのです。私は黒板の前に立ち、ならってきたものを教えました。
 まだ論語をならっている頃のことです。いつものとおり私は家で母に教えていました。そのとき母が、これは何という意味ですか、と私に尋ねたのです。私が論語をならっていたのはあくまで素読であって、意味、内容ではなかったのです。私は返答につまり、明日、菅原先生に尋ねてみようと思いました。翌日、母に尋ねられたところを菅原先生に聞きました。私はてっきりほめられると思っていたのです。
 ところが菅原先生は、「お前はなんと心得ておるのだ。この論語というのは千年に一度現れるか現れないかわからないような孔子というえらい人の言葉が書いてあるのだ。こういうえらい人の言葉を、いまだ小学校にも行かざるに、わかろうなどとはとんでもないことだ。だまって読んでおれ。そうすれば“読書百遍意おのずから通ず”といって、いつの間にかわかるものだ。これを体得するというのだ」と言っておこられました。
 早速、私は家へ帰って母に同じように言ったのです。母は神妙に聞いていました。
 今にして考えれば、母は子どもを得意にさせる術を心得ていたわけです。私を教えてくださいって復習をさせていたわけです。子どもを勉強好きにさせるうまいやり方だったのです。
意気消沈は大嫌い
 私の母は当時の平均的な母親にくらべて向学心は旺盛だったようです。従軍看護婦からもどって、二つの女学校で学んだことでもわかります。この向学心を私に押しつけず、むしろおだてて下から私を持ち上げてくれました。それは母が私に与えた勉強机にもあらわれています。
 この勉強机は小さなもので、本など読んでいてもひじをつくことができない。母と二人で勉強しているとき、私が先生の立場ですから、当然ひじをつくことはできません。母がつこうとすると、私が注意します。自然、私は机にひじをつくことが少なくなりました。こうして、けじめも学んでいったのです。
 しかし、そう言えたのも私が大人になってからでした。子どものころの私は、母を理解してはいなかったのです。
 たとえば、私が旧制の第一高等学校に入学したとき、母の喜びようはたいへんなものでした。母は完全に私の応援団になっていたのです。近所の人に会っても、奥様、あの学校をご存知でしょうか、というような母に変わっていました。自分の息子が一高に入ったことを自慢しているわけです。
 私の母は確かに向学心に燃え、当時の一般的な母親と違っていたとは思いますが、そういう意味では、どこにでもいる母であり、子どもの応援団でした。そして自分の母校を愛するごとく、私の学校を愛したのです。
 ところが、私は一高を中退してしまいました。あれだけ喜んだ母はさぞくやしかったでしょう。しかし、母は私に向かってくやしいということはひと言も言わず、ただ、お前に志があるのかと尋ねたのです。そして、お前に志があるのならやりなさいと言いました。私の志は、文学でした。
 そうして私は学校をやめ、菊池寛、横光利一などの諸先生のおかげで毎日新聞に連載小説を書くことになりました。
 私の志が文学とわかると、母はドストエフスキーの本などを買ってきて、大きな天眼鏡を使って読みはじめました。私をはげましているわけです。
 ここまではよかったのですが、今度は菊池寛や横光利一に文学の話を聞いてくるなどと言いだすにいたってはいささかあわてました。よしなさいとも言えず、これはたいへんな母を持ったものだと思ったのです。
 母は老人くさくなく、意気軒昂たるところがありました。意気消沈することをいちばん嫌った母でもありました。
今でも聞こえる父母の声
 さいわい弟はしっかりした男でしたから私は母を弟にまかせ、十年働いては十年遊ぶという放浪のような生活をしていましたが、母は私から目を離さず、たえず手紙をくれたのです。その手紙の中には、いつも“信ずる”という言葉が書いてあるのです。そして、お前の志ということをよく言っていました。お前の志を成就してくれとも書いてありました。また、母は私の作品のたいへんな愛読者でもあったのです。
 私は庄内平野の吹浦というところにいたことがあるのです。庄内平野の右手に月山があり、左手に鳥海山があって、吹浦はその鳥海山のふもとの農漁村でたいへんきれいなところでした。ここで『鴎』という小説を書きまして、母は大喜びして読んでくれました。
 そのときの手紙に、本当に、なんという美しい小説でしょう、と今までになくほめてくれたのです。こんなにほめてくれたことは一度もありませんでした。しかし、この手紙も考えてみれば私を激励しているわけです。そして、母は自分は丈夫だ、元気である、だから心配はいらない、と書きそえてあるのです。
 私はこの手紙が、丈夫だとか元気だとかがいやに強調されているな、と思いました。そして、もしかしたら、母は具合が悪いのではないかと思ったのです。こういうことを考えると、これは働かなければいかん、という気持がわいてきました。
 早速上京すると、案の定、母は脳溢血で倒れていたのです。私は親孝行をしなければと思い、暖かな地方へ母を連れて旅立とうとしたのですが、母は自分がこんな身体でなければ、なにをしてでも働き、お前を働かせたりしないで、お前の志を成就させられるのに、それを思うと、お前が連れて行ってくれるのはうれしいけれど、たいへん残念なことだ、と言ってくれたのです。
 私自身、意気消沈することがあります。すると、元気を出して頑張れという父や母の声が聞こえてくるのです。いまだに父や母は私を鼓舞激励してくれるのだなあと、いまも生きていてくれるような気がするのです。
〔1月8日(月)・9日(火)放送「父母を語る」から〕
↑ページトップ
森敦インタビュー・談話一覧へ戻る
「森敦資料館」に掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。