076 年を知らぬが親孝行
出典:主婦の友 5月号 昭和54年5月1日
 ぼくの母は、森静野というんですが、名前に似合わずバイタリティーのある人でした。日露戦争のとき、従軍看護婦として船に乗り、その後、日本赤十字社に勤め、今の実践女子大と共立女子大を出たということです。朝鮮の京城でも、今で言うカルチャー・センターを開いてましたから、向学心の強い人だったんですね。教育ママでしたけど、厳しいところとこっけいなところを合わせ持った人でした。
 母は天然パーマだったんです。それで、毛が赤みがかっていたのに、昔の人ですから鼻が低い。「ぺちゃんこ鼻のちぢれっ毛」とからかうと、髪ふり乱して鬼子母神のごとく私を追いかけ回しました。かと思うと、日本まげを結うには、髪を黒く染めなければいけないのに、染めずにそのまま電車に乗ってしまったら、子どもがぼくの母親の顔を珍しそうにジロジロ見るわけです。母は内心しまったと思いながら「わざわざお金を払ってパーマにしたのよ」と言ったんですが、信用してもらえない。パーマにしたのなら、根元はちぢれていないはずだと理屈をこねるんです。そこへ窓から風が吹き込んできて、まげがゆるんでしまい、わかってしまった。それでも、母はさもおかしそうに笑っている。そんな人でした。
 ぼくが年を尋ねると、「親の年は知らないのが親孝行」と平然としてました。若く思われたかったんでしょう。だから、ぼくは母の年を正確に知らないんです。
 ぼくが山形にいるとき、ぼくの書いた本を読んで感動して、母が手紙をくれたんです。いつも放浪していたので、新しい職を求めて転地するのをきっかけに、母と暮らそうと思ったんです。そうしたら、母は脳溢血で倒れたまま亡くなってしまった。母のおおらかさ、ユーモラスなところに、ぼくは救われていたのですが、母に何もお返しができなくて、いまだに後悔しています。
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