082 「庄内平野で遊びの日々」
出典:活性 37号 昭和55年3月10日
■“惑う”ということ
 四十而不惑。
 漢文らしいこの五文字の漢語を、中国語ではどう発音するのか、それについてはまったくわからず、さらには漢文にくらいという人でも、文字面を眺めているうちに「四十ニシテ惑ワズ」という意味ではあるまいかと思いつくのではないだろうか。そしてことさら誰から教えられたわけではないのに、孔子なる偉い人物が『論語』とかの本の中で、そうのたもうているらしいということまで。
 四十年も生きつづけてきて、いまさら惑うようではハナシニナリマセヌゾ、と教えをたれているくらいだから、孔子さんはこの年齢の時期にはきっと惑ったりはしなかったにちがいない。“文学小辞典”なるものをひいてみたら、学者であり思想家であったと盛り沢山に書き並べてあった。おそらく凡百の迷いでウロウロしている者には、きっと想像もつかないような人格高潔の御仁であったのだろう。
 ところで夜も更けつつある寒空の路地に並ぶ“おでん屋”の、その屋台のソデの上に、まるで晒し首でも置いたふうに、頤を載せ、からみかげんな口調でオヤジに難題をふっかけている四十がらみの男が、たとえばこんなことを言っているのを見たことがあリはしないだろうか。
 「なっ、オヤジ、四十ニシテ惑ワズと訓戒をたれた孔子なんざ、あれはくわせ者よ。いかにも俺は惑わなかったといったふうだが、ありゃな、自分が惑いに惑ってばかりいたから、あんな文句を思いついたんだ。なあ、オヤジよ、そう思わねえか? 俺なんざあ、その孔子さまと同じよ、惑いに惑って酒くらってらあ。酒飲みの駄目男ってわけだ。なにっ? 俺は駄目男なんかじゃねえ」
■四十代は“遊び”の時期
 「わたしが四十のときは遊んでいました」
 四十歳の頃どんな日々であったかと聞いたとき、森さんは荘厳な静かな表情で、まずそう言った。しかし、端の者からはそう見え、人がそう言うのだから、あえて否定はしないだけのことで、自分では遊んでいたつもりはないという。遊んでいるわけではないと弁解したくないですからね、と。
 森さんが四十歳になった頃、奥さんの郷里である山形の庄内平野を転々としていた。その時分、まったく仕事をしていなかったので、傍目には徒食の生活と見えて当然であろう。それを非難されることだと思ったことはない。また非難されたからとて動ずる森さんではないし、また非難されたこともない。
 「わたしにとっては、実に意義のある日々でしたね。何も仕事をしていませんでしたけど、朝は七時に起きて散歩し、庄内平野と山々の連なりを眺める。酒田にいた時分は、よく海岸にたたずみ落日を眺めたりしたものです」
 やや重い、静かな語り調から“神韻縹緲”とでも形容するほかはない畏れさえ感じられて、それこそ凡百の徒には摩訶不思議な人物でも目のあたりにしているような気分になってしまうのだった。お金のほうは、生活費のほうは、などとつい思ってしまうのである。
 「金はありました。生活するだけの額はね。だいたいわたしは、十年単位で働き、そして遊んできているんです。三十代は懸命に働きましたからね。だから四十代は遊びの時期にはいっていたわけです」
 それにしても十年近くも遊びの日々を送れるとは、いったいどういうことなのだろう。
 「わたしの母は、ずうっと敦には遊ばせておけ、それでいいのだからと言っていたようですね。それに女房も無理に働くなと、よく言っていましたね。女房の実家の者もそう言ってくれましてね」
 そう運命づけられて生まれたとでも言えばいいのだろうか。できるだけ遊べ、働かずにすむならそうしろと言われるとは。しかもそうしてこられたということは──。
■無限受容に生きる
 山形での日々は自ら自然に受け入れた孤独な生活であった。この時期に森さんは小説を書いてはいない。特別にノートをとったことさえない。ただ自然を眺めて暮らしていた。収入のない生活は潤沢だったはずはなく、奥さんが海岸から流木を拾ってきて、それを薪にしていたこともある。
 「それを恥しいとは思いませんでした。そんな生活に女房は不満どころか、それでいいのだと言うんです。わたしが無理に働いて収入を得たりするよりは」
 もちろんこの時期、森さんは働くつもりはなかった。どうしようもない困窮の生活ではなかったからである。
 「この頃もっとも嬉しかったことは、遠く離れた友人から手紙をもらうことでした。もちろん返事も書きましたし、わたしのほうから手紙も書きましたけど、よく天に向かっていろいろなことを書いていましたね」
 話を聞いていると次第に捉えようのない気持になってきて、それこそ森さんを通して神韻縹渺たる世界が展がっていって、言葉がつむげないもどかしさに陥ってゆく。
 「わたしはこれまで、何につけ選ぶということをしませんでした。だから職業も選んだことはありません。職はいつ、どこにでもあると思っていましたから。でもたまたま得た職場では頑張りましたよ。いよいよ働かねばならなくなって山形を引き揚げ、東京に出てきて近代印刷所に勤めたときも、それを選んだわけじゃありません。友人を通してそういうことになったんですね。五十一歳になっていました」
 森さんは旧制第一高等学校に入学し、ほどなくやめた。選んだ最初であり最後のできごとだった。やめたのは選んで入ったものの、それほどの意義を見いだせないと思ったからにほかならない。そして終戦の年まで仕事をしなかった。奈良の東大寺に寄寓したりして“遊び”の日々を送ったのだった。
 森さんのこれまでの日々は、“無限受容”の生活で、流れのままに生きるとでもいったものである。清冽な水の流れを想像してもいい。水は自ら形をつくらず、川の形のままに淀まずに流れてゆく。ありのままに生きることの勁さが、話から教えられはしないだろうか。
 「人間できるだけ早いうちに“札つき”になれ。わたしはよくそう人に言うんです。ありのままであれとね。酒飲みだったら、それをかくすことはない。かくさなければ自由になれる。“札つき”になれば、それなりの負を背負わなければならないわけだが、その苦しさを受け入れることで自由になれるのだったらいいじゃありませんか。わたしは若くして“札つき"者だったんです」
 四十歳、この年齢はそれなりに“熟した”時期になっている。それはまた人生後半の財産をつくる時期でもある。知識をすてて知恵をとる年齢である。
 人さまざまに四十代を生きるものであろうが、それまでに蓄えてきた財産によって本当の自分を生きるときであろう。そうした生きようは、もしかすると森さんのおっしゃる“無限受容”にあるかもしれない。
 「四十代は遊んでいましたから、わたしは人からおごられるのを、どうとも思いませんでした。わたしの“遊びの時期”だったからです。なぜ抵抗なくそれを受け入れられたか。それは働いて収入を得ていたときは、相手におごらせなかったからです」
 奥さんは東京に出てから亡くなった。そのとき森さんは女房のために“遊んでいるべき”だったと悔んだという。無理に働くことはない、遊んでいてくれとよく言っていたことを思って──。
(ルポライター/斎藤鈴男)
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