083 熟年社会を考える
発憤しては食を忘れ楽しんでは以て憂いを忘れ
■インタビュアー 藤岡和賀夫(電通PR局長)

出典:月刊アドバタイジング八月号/1980 昭和55年7月25日
 近頃は、正体知れた人ばかりになり、つき合いも、名刺一枚を超えることは滅多にない。それだけ、安心して渡れる世の中の仕組みはありがたいが、誰の話も、ちょっと気の利いた程度でマスコミ受け売りだし、下手をすれば、冗談も週刊誌仕込みだ。
 四〇年間、書くことをしなかった作家森敦さんには、その点、正体不明の凄味がある。
 天下の俊秀が雲のように集まる第一高等学校に、海の彼方の京城中学からただ一人合格したというのに、青年森敦は、一学期後には学校を捨て、長い長い放浪の人生へ旅立つ……。
(藤岡)
人生というもう一つの大学
 藤岡  森さんといえば『月山』ですが、作品論は別として、あれを四〇年ぶりでお書きになったということが、私には鮮烈な驚きでした。つまり、あのとき私は、作家とは何かという問題を突きつけられたような気がしたんです。
 森  実相を申し上げますと、四〇年間、ぼくは文壇的に孤独ではなかったんですよ。多くの友人は信じてくれていたし、彼らからぼくの噂を聞いて、いくつかの出版社が絶えず連絡をくれていたんです。けれども、ぼくは書くことはやめたんだから書くまいと思っていました。
 大体は、一〇年勤めては一〇年遊び、一〇年遊んでは一〇年勤める、という具合でした。何といっても女房と二人きりですからそんなことができるわけですが、まあ、この人生、一〇年は猛烈に働く替わりに、一〇年は何にもせんで遊ばせてもらおう、その間にもし書くということがあれば、これは遊びじゃありませんからね。だから本当に何ものも放擲して、山を見たり海を見たり、あとはもう酒でも飲んでおったわけです。そして四〇年目に、ちょうど働かなくちゃならんころ、すなわちお金がなくなったころ、上京しました。
 ぼくは、この世の中には大学が二つあると思っているんです。どちらの大学も出ればそれに越したことはないんだけれども、どちらの大学でも、出ておれば食ってはいけるんだと。
 藤岡  二つの大学といいますと……。
 森  たとえば、中華そば屋でも、おやじが一言のたまうのを聞きに集まってきて繁盛している店がある。彼はやっぱり、目に見えないこの世の大学を出たので、それなりの哲学を持っております。だから、いわゆる大学を出ても何か一つの哲学をつかまないことには大学を出たとは言えないのだから、目に見えないもう一つの人生の大学──会社であれ、野や山であれ、あるいは屋台店であれ──がある。学校にいるときにそう思って、本当にそれを実行した振り出しが奈良の東大寺なんです。
 藤岡  なるほど。そういえば、酒場がぼくの学校だった、と言った人かいましたね。えーと、詩人のバイロンでしたっけ。
 森  そうですね。それで、奈良には約一〇年もいましたかね。その間、仏像を見たりしてぶらぶらしていたんですが、当時、志賀直哉が奈良におられたので、ぼくが志賀直哉を慕って奈良に行ったように思われていますけれども、何ら接触はなかったんです。文学をやる気はないんですから。
 そんなに遊んでいて金がなくなったらどうするのかと言う人がいましたけれども、ぼくは、働く口は必ずあると思っていたんです。大学を出ていないし、食えなくなって勤めるんですから何でもいいんです。何でもいいということになれば、この世の中に口がないということはないと安楽でいたわけです。
 それで、一〇年目にはやっぱり金がなくなりまして、勤めることになったんですけれども、そのとき、もしぼくの同級生だった人、あるいはぼくがそのまま学校に行けば下級生になるべき人がぼくの上に立つかもしれないけれども、ぼくは自分の意志で学校をやめたんだから、彼らに対して決してやきもちを焼いたり不服を言ったりはすまいという気でおったのです。これが上の人からはかわいがられるし、同僚にも敵をつくらない原因になったんですね。そのときは、一〇年問ばっしり勤めました、ありがたいと思いましたから。
 そこで、金もたまったのでまた放浪しようと、北から南までいろいろな土地に行きました。三度目に金がなくなったとき、東京の小さな印刷屋──二〇人足らずの零細企業です──に勤めることになったんですが、なかなかおもしろい社長で、ぼくみたいな人間を受け入れてくれたわけです。ぼくはもちろん印刷なんか知りませんから、社長とだべっているくらいのものなんです。ぼくみたいなやつを置いておくから会社は大きくならないんだと言う人もいたんですが、ぼくがおるために、いわゆる同人雑誌の注文がいくつか来るんです。同人雑誌というのはいつ発行してもいいわけですから、手があいたときにやればいいし、組みが単純ですから、商売には非常にありがたいんです。
 その上、向こうはぼくを同志だと思っていますから、金がなくて手形が落ちないと言えば先払いしてくれる人までいる。その中の一人が、何か一つ書かないか、と言うんです。仕事ももらっているしお金も厄介になっているわけですから、いやというわけにはいかないので、『光陰』という短いものを書いたんです。それが何冊か文壇やジャーナリズムに配られて、今度は正式に『季刊藝術』というところから頼みに来たんです。実はその人たちも恩人でしたから、それでは書いてみようというので、わりとさらさらと書き上げたのが『月山』なんです。そうしたら世の中が変わっちゃったんです、ぼくにとって。
“運ぶと書いてウンと訓む”
 藤岡  雑誌や新聞に森さんのお名前が出るときは当然、「評論家」ではなく「作家」ですね。作家というのは、少なくとも私にとっては「評論家」よりイメージが非常に高いんです。それは、作家というのは、文筆を業としているというだけでなく、人生を洞察している人、という感じがあるからなんです。
 森さんは四〇年ぶりに書かれたそうですが、いわゆる職業としての作家という意味からすれば、とうてい作家とはいえないですね。だから、四〇年間書かない「作家」というのは一体何だろうと、私はすごく不思議な感じがしたんです。『月山』以後も、あまりお書きになっていないと思うんだけれども、このまま何もお書きにならなくても、森さんが「作家」であり続けるということの意味…。
 森  「作家」とおっしゃいましたけれども、以前は小説家、もっと前は戯作者ですね。小説を創作と呼ぶようになって、創作家、つまり作家なんですね。ぼくは敢えていろいろな人生を渡ってまいりましたけれども、自分が創作したとは思ってないんです。写生文とは違いますが、実際に渡ってきた人生をそのまま書いたと思っているんです。
 ぼくは、月山の山ふところの七五三掛という村にある、注連寺というかなり荒廃した寺にいたんです。村も、いまはもう立派な道ができて、みんな自動車を持って面貌を新たにしていますが、当時は、お寺のずうっと下の方にある二〇軒の村が冬になると孤絶しちゃって、来るのはヤミの酒屋だけなんです。 お寺の上もさらに山になっていまして、その山の向こうに木小屋があるんですが、杢右ヱ門──向こうでは“もくえん”と呼ぶんです──の爺さまが、小さな体に大きなカンジキを踏んで、寺のあたりに差しかかるころには湯気をいっぱいたてて、何か背負って通るんです。薪じゃありません。おそらく木小屋に隠しておく密造酒だろうと思うんです。
 ぼくはもくえんの爺さまに、「毎日ご苦労さんですね」と言ったんです。すると、「いやあ何でもねえ。これが人生だ」と言うんです。どうして人生なんだと聞いたら、学校の先生様から、運ぶと書いてウン(運)と訓むと教えられた、運ぶことなくして運が来ることはないんだ、と言うんです。物を絶えず運んでおることが運の来ることで、それを仕事というんだ、と。物理学的にもそうなんですね。運動なくして仕事はないんですから。もう七〇歳くらいのじいさんですが、ぼくは、ははあ、この人はやっぱり哲学を持っておると思いましたね。たった一つの哲学で歩いておるわけです。その上に、歩いてさえおれば、吹雪がどんなにひどくても埋もっちゃうことはないし、倒れないと言うんです。
 ぼくもこの年になりましたので、そういう言葉をよく思い出すんです。それが『月山』になったり『鳥海山』になったり、『天沼』を書かせたりしたんです。毎日を卒然として送っていても、おれが小説家だったらこれは書けるんじゃないかと思われる瞬間がある。それはわれわれの目の前に通過している時間の構造、起承転結が見えているときなんです。だから、もくえんの爺さまから、運ぶと書いてウンと訓むと言われたとき、ぼくの目の前で時問が凝縮して、人生が見えてきたわけです。
 藤岡  なるほどね。少しわかってきました。
 森  ぼくはこの年になって、やっぱり人生というものを考えるんです。ぼくは子供のときから『論語』の素読を習っておりまして、わけがわからず読んでおったわけですが、昨日のことは忘れても、子供のころのことは忘れないんです。
 たとえば、「十有五ニシテ学ニ志シ、三十ニシテ立ツ、四十ニシテ惑ハズ、五十ニシテ天命ヲ知ル、六十ニシテ耳順フ、七十ニシテ心ノ欲スルママニ従ヒテ敢ヘテ矩ヲ踰ヘズ」と、これが孔子の一生だったわけです。これは孔子が七〇歳以上生きた証拠ですが、ぼくももう六八歳ですから、ほとんど同じような時間を過ごしていることになります。張り切ったときには案外、自分の一生を思い出さないものですが、やはり意気銷沈したり衰えを知ったときなどには、孔子の言葉がボーッと浮かんできて、それを物差しにしてぼくの人生を顧みるんです。
 そうすると、運ぶと書いてウンと訓む、歩いてさえいればどんな吹雪の中でも倒れない、というもくえんの言葉がふっと浮かんでくる。これはいかん、と思っていると、孔子の弟子の子路が、ある人から孔子はどんな人かと聞かれて答えられなかったと孔子に言ったら、孔子は笑って、おまえはどうしてこう言ってくれなかったのだ、「発憤シテハ食ヲ忘レ、楽シンデハ以テ食ヲ忘レ、老イノ将ニ至ラントスルヲ知ラズ」と。こういう言葉が、もくえんに触発されてぐうっと浮かんで来るんです。これはいかん、寝てばかりいたら寝癖がつくぞ、と。それで起き上がっておりますね。
 ぼくの創作の目的は、人生の一片でもいいから、そういうことを書いたり話したりすることだと思っています。だから、書け書けと盛んに言われますけど、たまたま小説を書いたから書き続けなければならんということはなくて、何をやってもいいと思っているんです。ぼくは、人間の存在は表現であり、エクスプレッションがエクジスタンスだと思っているんです。表現なくして存在はないんです。
 ぼくはいろんなところをさまよいましたけれども、“人生は表現なり”と思っていましたから、何かの形でぼくがぼくである所以を表現しておればいいわけです。本当に偉い人は、黙って坐っているだけで何か雰囲気がある。つまりエクスプレッションしているわけです。だからぼくは、自己のエクスプレッションとしてなら、広告の文章でも書くし、テレビにお座敷がかかれば出ます。おまえは作家であることを忘れて浮いたかひょうたんかと言う人があるけれども、ぼくがぼくであることによって何かが表現できる、それがすなわちぼくの存在であると思っているんです。それを「色即是空、空即是色」というんだろうと思います。
仕事もまた放浪
 藤岡  私がさっき、ちょっとわかったと申し上げたのは作家と小説家の違いで、作家は書かなくても“作家”なんですね。
 森 いや、ありがたいですね。
 藤岡  だから、森さんはもう書かなくていいんですよ(笑)。
 森  そうですか(笑)。
 藤岡  もう永久に書かなくても“作家”なんです。四〇年ぶりの一作で受けた私の衝撃はそこらへんにあったんですね。たまたま小説を書かれれば小説家で、もし新井満氏のように「月山」の組曲をつくられたら音楽家なんですが、もとにあるのは“作家”なんですね。何かそんな感じがしてきました。
 しかし、一〇年ごとに放浪されたり仕事に就かれたりというのは、私たちからすればまことに妬ましいような、といってできそうにもなさそうな……(笑)。そういえば、六〇年代のアメリカの若者が一番気に入っていた言葉は、カール・マルクスのこの言葉だそうですね。
 「人間は朝には羊飼いであることを望み、午後には漁夫であることを欲し、夕食後には批評家でありたいと希う。そして翌朝には、このいずれでもありたくないと考える。つまり、人間はひとつの牢獄に閉じこめられたくないのである」
 いろんな生き方のほとんどを捨てるのが私たちサラリーマンで、その反対が森さんだと……。森さんは、放浪と仕事を一〇年ごととお決めになっているんですか。
 森  決めているんです。これは人には勧められませんけれども、ぼく自身は、一〇年たったらいつでも辞めてやろうと思って、骨身を砕いて働いたんです。だから、ある意味では仕事も放浪なんです。一〇年たったら辞めるんだから、どんな苦しいことがあっても耐えよう、思い切ったことをやってやろうと思う。「今度はなりふり構わず働くから、休みには一緒に旅をするなどということは全くしない一〇年間辛棒してくれ。そうすれば永久に遊べるかもわからん」と死んだ女房にも言ったんですけれども、実際には永久に遊べないで金がなくなっちゃう。でも、一〇年たったら辞めるんだと思っているから、ものすごく働くし、ものすごい大胆さも出てくるんです。
 ぼくがガンにでもなって本当に死が見えてきたら、慌てないとは言いませんが、どうなるかごらんくださいとだけ言っておきます。だから、ぼくは、定年などというものはなるべくない方がいいと思っています。さっきの小さな印刷屋などは定年なんてないんです。みんな死ぬまで働いています。死ぬまで働けるんですから。
 八十幾つの人がその会社に勤めていて、重い紙を運んでるんです。紙は材木より重たいんです、圧縮された材木ですから。まじめな人で、小さなアパートも持っていますから楽隠居できないことはないし、いい加減でやめて家におれと言う人もいたんですが、彼は横浜の方から毎朝早く通って来る。
 ぼくも手伝ってみたことがあるんですが、ぼくが運ぶと紙がずれるんですね。機械にかけるのに倍の時間がかかるから運んでくれるなと言われました。ぼくが、「あんた、辞めなさんな。めまいがしたりしたら、無理しないで、紙の上でも何でもすぐ寝てくれ」と激励すると、「本当にありがとう」と言っていましたが、若々しくて、八十幾つで亡くなる直前まで働いておったですよ。彼はそのことを感謝して死んだと思っています。彼も、運ぶと書いてウンと訓むと言ったもくえんの爺さまのように、倒れるまで運んだんです。それはまた、運んでさえいれば倒れないということと同じだと、ぼくは信じていますがね。
  だから、いまの年をとった方も、仕事がないならジョギングでもいい、何か自分で自分に義務づければ、体をよくするばかりでなく、もっと大いなるものをもたらしてくれると、ぼくは思っています。
一日は人生の断片
 藤岡  死の前に老いがあるわけですが、老いは恐怖ではないんでしょうか。
 森  ぼくも老いてきましたけれども、先ほども申しましたように、孔子の生涯を思い浮かべたりするということはぼくの生涯を思い浮かべているので、とてもじゃないがだめだな、と発奮したりするんです。
 人間はやはり老いるわけですね。若い方にはあまりないと思うんですが、自分の生涯をずうっと顧みているうちに薄ら眠くなってボーッとしちゃう癖がぼくにはあるんです。これは老いの徴候なんだけれども、何も病気が追ってきているわけではないので、必ずしも苦しいものではないんです。そのときぼくは首を振って、いけない、運ぶと書いてウンと訓むんだぞ、とか、発憤しては食を忘れるんだぞ、とか思い出して覚醒しまして、原稿を書いたり、テレビ局に行ったり、講演をしたりしているんです。
 藤岡  以前、幸田文さんにお目にかかったとき──幸田さんの方が森さんよりちょっと年上で、七十幾つでしょうね──、いま、朝な夕なに老いを感じると、すごくさらっとおつしゃるんです。
 森  あの方の文章にあるんですが、北海道の原始林か何かを訪ねたとき、朽ち木が倒れていて、中がほこらになっていて、そこにしばらく手を突っ込んでみたら、何だかほの暖かかったという、ただそれだけの文章なんです。幸田文さんを朽ち木だと言っては失礼だけれども、しかし、もし朽ち木であったとしたら、ほこらの穴に手を突っ込んでみると暖かかったということは幸田文さんの願いであり、エクスプレッション、存在を示すものではないでしょうか。いい文章だと思いました。こういうものを文章というんですよ。
 だから、われわれはいつかは老い朽ちて倒れ、その中に穴ができるかもしれないけれども、その時に穴に指を入れてくれたら暖かいというくらいにありたいと思っています。
 藤岡  なるほどね。そうかと思うと、平林たい子さんは六六歳で亡くなられるとき、主治医の方に、私はこれからも一生懸命生きますから何とか生かしてください、と頼んだそうですね。
 森  ぼくも平林さんにはちょっとお会いしたことがありますが、これからしたい仕事もあるし、残念だと思っていたんじゃないですか。ぼくはおそらくそうは思わんと思うんですよ。これでよかったんだと。遺言など書いておかないといかんと思いますけれども、ぼくもこれから野心が急に起こって何かしたいと思い始めたら、もう少し生かしてくれと言うかもわかりませんが、とにかく平林さんは馬力の人ですからね。人生の生き方にも、姿で生きるのと馬力で生きるのと、二種類あるんですよ。
 日本の飛行機は、糸川さんあたりに聞いてみればすぐわかることなんですが、非常に姿がよくて旋回力もあるし、姿で飛んでおるんです。だから──まあ虚勢にすぎなかったけれども──飛行機がたくさんあった間は日本も強かった。ところが、アメリカの飛行機は大量生産ですから姿に頓着しておれない、馬力で引っ張るんです。
 人生の生き方にも、姿でスーッと飛んでる人と馬力で飛んでる人とがあって、平林さんなんかは馬力で引っ張って生きていたんじゃないですか。まあ、結局は同じことになりますけれども、敢えて望まず、敢えて何をか言わずに、しかも立派に人生を飛行している人もいるんじゃないですか。
 藤岡  森於菟さんの『耄碌日記』ですと姿ですか。
 森  自然に任せて……。
 藤岡  そうですね。昼間のような明るさから急に暗闇に行くのはやっぱりつらい。平林さんがそうなんでしょうね。だんだん薄明りになって行くのが、ある意味では幸せなんじゃないでしょうか。
 森  だから人間にはうまいことに、耄碌があるんです。
 藤岡  そうなんですね。耄碌というのは薄明の状態で……。
 森  そうですね。だけど、先ほども言ったように、歩いていれば倒れない、倒れるまでは歩くという生涯があるわけですね。しかし、耄碌というのも、それはそれで悪くはないですよ。一〇〇歳くらいまで生きて、飴玉をしゃぶって何とか言っているうちに入定する人もいます。それも幸福でしょう。
 藤岡  しかし不思議なものですね。人生、生まれて、そして死ぬんでしょうけれども、生まれたときはみんなほとんど同じですね。それでみんなゴールは違うんですね。
 森  違うんですね。
 藤岡  どういうゴールが自分のために用意されているかわからないですね。
 森  わからないですね。
 藤岡  森さんはどこかで、ライフワークというのは、その日その日を精いっぱいやっていくことだとおっしゃっていますね。よく、ここで最後に大きな作品を書いてとか、一発何かものしてとか言いますけれども、ライフワークというのはそれじゃないですね。
 森  それは無理ですよ。ライフワークというのはそうじゃない。だって、われわれの一日は人生の断片なので、両端に延長すれば人生になるんですから。
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