101 父との思い出が心を慰める
出典:啓発 82号 昭和56年8月10日
 「目をつぶってごらん。お母さんが電車に乗っているのが見えてくるだろう」
 と父。すると母が見えてくる。でも、しばらくして母が気になりまた尋ねると、
 「もう一度目をつぶってごらん。ほら、お母さんは電車を降りて街角まで来ているのがわかるだろう」
 と再び父。こんなやりとりのうちに、いつしか私は眠りに落ちる。翌朝目を覚ますと、深夜戻った母がはたして傍らにいるのだった。
 父が政治に手を出して抱えた多額の借金のため、連日遅くまで働きに出ていた母を待ちわびる幼き日の私の思い出である。
 赤十字社、実践女学校、共立女子職業学校に、自分の力で自力で学んだ気丈な母と、漢籍を能くした剛気な父であった。
 後年、山形県の注連寺に生活し、『月山』の構想を練っていた頃、求めて来た地だとはいえ、ともすると孤独のすきま風が私の心をよぎることがあった。それと背中合わせに絶望の影が射したようにも思えた。
 そのようなとき、父との幼年時の思い出はなぜか私の心を慰めてくれた。
 これは、母の姿だけを思い、飽き足りなくなると再び父の言葉にしたがってひたすら母を浮かべるという繰り返しが、幼い私の“観想”だったからではないかと考えたことがある。
 たとえば観無量寿経には、絶望に陥った、つまり孤独に追いこまれた妃(母)が浄土を“観想”することによって救われるという話があるが、これと私の思い出とは、何か通ずるところがあるように思われたからである。
 また、孤独が人格化したように感じたことがあった。まるで孤独という人格が像を伴って私に対座している具合なのだ。孤独との対面といえようか。
 こんな場合にはパスカルがその自慰論で、マスターベーション(自慰)は孤独との対話であるという意味の発言をしていたのを思い出したり、哲学者のカントは自慰を楽しんでいたことを思ったりしたものである。
 ときには無性に電話をかけたくなることもあった。年を追うごと、同級生の数が減っていくなかで、受話器越しに飛び込んでくる懐かしい声は、どうしても私の気分を楽しく励ましてくれる。若い頃には実感できなかったことであった。
 ところで、なんとなく孤独といった場合、これは実に曖昧な響きをもつ。というのは、いわゆる孤独には、何かに打ちこむ姿勢がなければ向き合えないし、死生観を探るという厳しさがなければ、これは現れないと思うからだ。だが、“なんとなく”という多分に雰囲気的な状態であっても、もしかすると、より本物の孤独へ通じる緒(いとぐち)にはなりえるのか、とも思う。
 もし深い絶望に陥ったのであれば、それはすなわち孤独に対面している、といえるだろう。愛情と憎悪が表裏の関係にあるように、面白いメカニズムが人間にはあるが、孤独と絶望も紙一重の関係にあるからである。
                                                  (談)
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