106 白帯に誉れあり
出典:学び方教室90 昭和57年3月20日
学校は荒廃しているといわれるが、その原因の一端は先生と生徒相互の信頼関係が失われつつあるからではなかろうか。先生方に、昔に還れとはいわないけれども、当時の教育から何かを学びとってほしいと思う。
 
子どもと親の<学校ごっこ>
 ぼくは、子どものころ韓国に住んでいて、京城(ソウル)にある鐘路小学校に通学した。受け持ちの先生は、杉山という女の先生だった。隣りのクラスも女の先生で、田辺といった。子どもは、特に小学校の低学年のころは、受け持ちの先生というのは、若かろうが年輩であろうが、みな美人だと思っている。つまり子どもごころに尊敬する人は誰でも美人に見え、ハンサムに思えてくるものである。
 だから、杉山先生と隣りの田辺先生とどっちがより美人だということになって、めいめいがその主張を曲げず、クラス同士で集団殴り合いをしたことがある。大人になってから写真を見たり、思い出してみると、決して美人とはいえない人でも、小学校の二年か三年のときは本当に美人だと思いこみ、あこがれていたものである。
 ぼくの父親というのが漢学者で、学校の先生というのはたいへん偉いものだということを、小さいときから植えつけてくれた。そういう偉い人から教えを乞うからには、金品を持っていくのが教わる者の礼であるという考えがあり、盆暮れには必ず付け届けをした。論語に「束脩を納むるからには教えずむばあらず」という言葉がある。父は束脩のつもりで金品を持って行った。
 今は、小・中学校には落第というものはないが、昔は小学校でも成績が悪いと、どんどん落第させられた。親も、わからないまま進級するよりも、落第してもう一度やるほうがいい──わからなければ早い時期に基礎を固めておけば、大人になって役立つというのだ。
 先生に金品を付け届けて、うちの子が悪いことをしたら遠慮なく殴ってくれ、成績が悪かったらどんどん落第させてくれと頼んだ。先生も金品をもらっているからといって、手加減して殴るのを遠慮するようなことはなかった。だから、ぼくが先生に殴られたといったら、父は、「親の言うことをきいて殴ってくれたのだ」といって、その先生に感謝していた。
 そのように厳しい父だったが、母の方はひと口にいうとこっけいなひとだった。何がこっけいだというと説明には困るが、何となくこっけいなのだ。世間には何となくこっけいな人がいるように、ただその人がいるだけで周囲に笑いが出てくるというような人だった。別に顔形や立ち居振る舞いがこっけいだったわけでもないし、ユーモアという言葉だけで区分けすることもできない──することなすことが何となくおかしいのである。
 いま、ぼくは、父の「厳しさ」と母の「こっけいさ」に育てられてよかったと思っている。その父に、ぼくは幼稚園へ行くかわりに、漢文の素読の勉強に通わされた。あのころもむろん幼稚園教育はさかんで、フレーベルとかペスタロッチが論じられていたのである。そして、ぼくは最初に習ったのが『論語』だった。
 素読というのは、漢文の意味は教えないで、師の言われた言葉をその通りに繰り返す。ぼくの父は漢学者にもかかわらず、自分の子どもには教えようとはしなかった。だからぼくは漢学塾に通い、菅原ブッチュウという先生に素読を習った。ブッチュウというのは、どんな字を書くのか今だにわからないが、そのブッチュウ先生は、ぼくの父のことを「先生」と呼んでいたから、父のほうが漢学ができたのだろう。
「教えて厳ならざれば師の誤り」という言葉通り、父は自分の子には教えなかった。親が子どもを教える場合、ややもすると子どもの方についつい甘え癖がつく。甘え癖がつくと、そのうちに他人にも世間にも甘える、依頼心の強い人間に育つということで、昔の大学者は遊学といって、必ずどこかの塾──今の受験のための塾ではない──の先生に習わせたものである。
 ぼくが菅原先生に『論語』を習ってくると、母は、「お母さんは漢文って知らないから教えて」と言うのだ。小学校にも上がっていない自分の息子をつかまえてそう言う。幼稚園に通っている年齢だから、今から六十年も昔の話である。
 ぼくは母にせがまれて、論語を教えた。母は、息子に論語を教わるといって、大きな木版本を用意して待っている。木版本は字が大きい。字が大きければどんなに難しい字でも、一、二、三の漢数字を覚えるのと同じように、きちんと頭の中に入るというのである。
 母は、ぼくが帰ってくるのを待っていて、すぐにその日習ったことを教えてくれという。考えてみれば、親と子どもの学校ごっこである。ぼくの家庭学習は、そこから入っていったといえる。子どもが学校から帰ってくると、大低の家庭のお母さん方は、「勉強しろ、勉強しろ」と口うるさく言うけれど、ぼくの場合はちがっていた。子どもながらに、母に教えようという目的があったので、一生懸命覚えて帰ったのである。
 何か一つでいいからものすごく優れたものを身につけるという教育は、その子の自信にもつながる。宮城まり子さんがやっている「ねむの木学園」の子どもたちを例に考えてみよう。
 あの子どもたちは手足が不自由だけれども絵がかける。体に障害をもっていても、すばらしい表現と創造力がある。絵だけかけたってどうなるんだということもいえなくはない。しかし、絵がかけるということが、少なくともいまのあの子どもたちの生きがいになっていると思う。何か一つできればいい。子どもの時に何か一つだけ徹底して勉強しておくとよい、というのがぼくの持論である。
 ぼくは漢学を勉強した。そういう教育を受けさせられた。というよりも、小さい頃の母との学校ごっこによって、そういうことが自然と身についたといえる。ぼくが小学校へ上がるようになっても、母との家庭学習は続けられた。その頃の塾の先生というのは、子どもが本(この場合は論語)を読み間違えると、赤い紙を小さく千切って指の上に乗せて、ちょっとなめて、間違ったところにピッと貼ったものだ。それが面白い。
 だからぼくも先生を真似て、母が読み間違えたら、先生と同じように赤い紙を千切ってピッと貼る。どういう訳か、ぼくの母は、一度読み間違えると必ず次も同じところを読み間違えた。母親が上手に読めると、赤い紙はツバキで貼ってあるので、爪ではじいて取った。まったく先生と同じことをした。
こっけいということの認識
 ぼくが旧制第一高等学校に合格した時、母はひどく学校自慢をしたものである。ぼくが旧制第一高等学校に入学したことを人に言いたくて仕様がない。だれかれかまわずに、「あなたは『ああ玉杯に花うけて……』という歌を知っていますか」と聞く。
「ああ、知っていますよ。有名な一高の寮歌でしょう」
 相手がそう返事をしようものなら、「うちのバカがね、どういう訳だかその学校に入ってしまいましてね」と、言葉は乱暴だが、嬉しさをかくすことなく、天真爛漫に自慢してまわるのだった。
 そんなに母が喜んだ一高だったが、ぼくは退学してしまった。二十歳前だったが、ぼくは横光利一さんの推挽で『酩酊船』という小説を毎日新聞に連載して一高を中退したが、母は泣いたり騒いだりすることなく、「お前、志があるのか」と、ぼくに聞いた。
「ある」と答えたら、「じゃあ、思うことをやりとげなさい」とただそう言っただけだった。
 そして、ぼくが文学をやりだすと、母はもうその時分は年をとっていたものだから、天眼鏡を持ってきて、フローベルの『ボヴァリー夫人』と、ドストユフスキーの『罪と罰』の二冊を全部読み上げた。
 当時、ぼくは北沢に住んでいて、横光利一さんのお宅に近く、可愛がられるままによく伺っていた。横光さんはもうすでに文学の神様といわれ、文壇に確乎たる地位を占めていた。
 母は、『罪と罰』や『ボヴァリー夫人』を読むと、感嘆おくあたわず横光さんを訪ね、「どうも、ドストエフスキーの『罪と罰』というのは、世界一の文学ではないでしょうか」と言ったらしい。
 すると横光さんは、まじめな顔で、「その通りです。『罪と罰』は世界一です」
「フローベルの『ボヴァリー夫人』も世界一だと思っています」
「その通りです。まったくその通りです」と、当時文壇で飛ぶ鳥落とす勢いだった横光利一がまじめに答えたという。
 母がまた、「二人が世界文学の土俵で四つに組んで水が入ったような出来栄えですね」と言ったら、「まったくその通りです」と横光さんはいちいちうなずいて、嬉しそうに答えたと言ってぼくに話すから、冷や汗をかかずにはいられなかった。
 母がこっけいな人だったというのは、こういうことを指しているのであって、やたらと顔をしかめたり、意味もないのに目をむいたり、逆立ちをして見せたりすることではない。他人が見ると柄にもないと思われるようなことを、まじめに一生懸命やればやる程こっけいに見えてくる。つまり、普通のお母さんやおばあさんが天眼鏡を持ち出して、『罪と罰』や『ボヴァリー夫人』を読んで、文学の神様と呼ばれる人のところへ行って話をしてくるなどは考えられないことで、そのこと事態がこっけいというのである。
 いまのお母さんのなかには、ぼくのいうこっけいな人も探せばいるだろうが、本当のこっけいというものを認識していないのではないかと思う。学校の先生にもこっけいという認識がない。つまり、真実追求というものに裏打ちされたこっけいさが先生にないものだから、生徒はついてこない。真実を追求する情熱と絶えざる研究欲に裏づけされたものがあれば、たとえ毎日の授業の技術が未熟でも、生徒は先生の人間的なこっけいさにひかれるものではないだろうか。
 なぜこっけいというものが、いま大切であるかというと、その底には天真爛漫という人間の赤裸々な持ち味があるからだと思う。だが、人間というものは、そんなにいつもいつも天真爛漫でいられるわけはない。人生のある時期は天真爛漫であるかもしれないけれども、それを大切に育てていくことができない。
 ぼくらの時代には、天性無邪気というか、天真爛漫というか、こんないい言葉はないと思っていた。それは一つの美徳である。いま、どの教育書からも天真爛漫という言葉はなくなっている。生まれながらの天真爛漫な人間を、そうでないような育て方をしている教育ママが増えすぎて、やたら頭でっかちの学歴偏重の人間をつくりあげようとしている。
 先生もそれに輪をかけて、専門職としての教師がやたらと増え、内にこっけいさを秘めながら、生徒の天性純な芽をはぐくみ、大切に実らせていこうとする教育愛すら失っているように思うのは、ぼくひとりの思いすごしだろうか。
徳育と体育について
 最近、生徒の非行のなかでも校内暴力が問題になっているが、生徒が暴力をふるう原因の一つは、教師との真のスキンシップがないこと、つまり教師の側に人間的なこっけいを失いつつあるからではないかと思う。
 ぼくらの中学時代にも校内暴力はあった。今よりももっと乱暴なことが横行していたと思う。ぼくは鐘路小学校を卒業して、京城中学校に通っていた。京城中学校は、韓国でも一番いい中学校の部類に入っていた。
 そのころは、中学三年でひねくれなければ一生ひねくれないといわれていたので、中学三年生にはもっとも厳しい教育をしたそうだ。
 柔剣道と教練を正課に取り入れて、徹底的に鍛える。だから、柔道の京城中学といえば全国的にも有名だった。当時、日本で柔道の非常に強い学校は、鳥取の米子中学だった。
 日本一の柔道中学といっていい。そこには、「白帯の誉れ」という伝統があり、柔道部員全員が白帯を締めていた。有段者は黒帯を締めるものだが、米子中学校では三段、四段の実力があっても、みな白帯で通した。だから、白帯だからといってバカにすると痛い目にあう。こちらは黒帯を締めていても、実力では彼らに劣る。事実、米子中学の柔道部員は、大学に行ったらすぐに三段、四段になる。白帯が黒帯を負かして全国制覇した。彼らには白帯の誇りがあり、その白帯の伝統を実力で守り抜いたのだと思う。
 後年、ぼくが山形で講演を頼まれて、その語をして、米子中学は運動の強い立派な学校だったと言ったら、そこの校長が、
「森さんね、それは当時の話で、今は違うんですよ。昔、米子中学が体育(柔・剣道)で全国制覇をしていたころは、全国でも指折りの中学校だったけれど、運動をしないで受験勉強ばかりするようになったら、結局、運動も勉強もダメになってしまいましたね」
 と言った。ぼくは、なるほどそんなものかと思い、教育の一つの真髄にふれる思いがした。
 徳育と体育とは車の両輪というけれども、体育を盛んにやらせると、暴力はふるわなくなるものだ。暴力を振るっているやつは、実力の伴わない黒帯を締めた人間で、本当に力のあるものは自帯の裏に力をためているものだと思う。
 ぼくが京城中学生だった時に、一人の先生が生徒に殴られたことがある。たしか、紀元節(建国記念日)だったと思う。みんな講堂に集まっていて、式が終わってその先生が講堂を出て行こうとしたら、
「待てっ!」
 という声がして、あっという間に先生を殴った。先生は殴られたけれども、どうもその先生の殴られ方が違う。ボクシングなどをやっている人は、パーンと殴られても、チョチョと体を動かしてうまく外す。そういう構え方がその先生にあった。
 そんな事件の後、台風のシーズンで、大雨の中をその先生が登校してくるのに出会った。偶然、その先生を殴った生徒もいた。風雨の中を先生は、傘の柄の先を軽く持った感じで歩いてくる。台風の中を、軽く傘を持っていたら、傘は当然吹き飛ばされるはずなのに、傘は微動だにせず、スーッ、スーッと風の中を歩いてくる。それを見て、生徒は、
「オッ! えらいことだ。あいつに殴られたら大変なことになる。あのときは、よく殴られてくれたなあ」
 と言って、青くなってしまった。その先生は、余程、柔道ができたということだった。
怒鳴台と名物先生
 はじめにも書いたように、ぼくらの時代は小、中学校でも成績が悪いと、どんどん落第させられた。高等学校もそうだった。ところが高校になると、少し知恵が働くようになり、「お礼参り」ということが行われた。いまの中学校の「お礼参り」とは違って、成績の悪い生徒が先生の家の裏からこっそり入って行って、
「先生、この教科の点をこれだけもらわないと落第します。何とか点を下さい」
 というと、
「よし、わかった」
 と言って、本当に点をくれたものである。
 その時にどういう訳だか、先生は必ずお汁粉を振る舞ってくれる。酒は出さないけれども、何しろ食べ盛りの生徒だし、落第しなくてもいいとわかって安心したものだから、急に空腹を覚えると見えて、八杯ぐらい平らげる。昔の器は今と違って大きいものだ。ドンブリのように大きなお碗に八杯ぐらい食べる。先生の奥さんがそばについていて、こんどは、「ご飯をおあがんなさい」とすすめてくれる。いくら食べ盛りでも、もうそれ以上は食べられないので、
「はあ、少食ですので……」と辞退する。何が少食なものか。ドンプリのような大きなお碗に八杯も食べておいて、少食もないものだ。ぼくも、このお礼参りには行った。それによく先生の家へは遊びに行ったものである。
 寄宿舎のある学校は先生の宿直があり、その時にもよく遊びに行った。いたずらもしたけれども、先生とは勉強以外のことでも話し合ったものである。
 学校には「怒鳴台」というのがあって、その台の上にあがって、怒鳴ったものだ。うっぷん晴らしの場所が学校にはあった。
「なんとかの先生は許しておかんぞ─」
「今度の数学の先生、タヌキ野郎、許しておかんぞ─」
 と怒鳴る。そうすると、みんながパチパチと拍手する。いわゆるエネルギーをそこで発散してしまうから、直接の暴力行為に出なくてすむ。うまく考えたものである。だが、今の教育環境の中には、例えばぼくらの時代のように、お汁粉を振る舞ってくれるとか、怒鳴るとか、そういうものがなくなってしまった。陰にこもってしまっている。
 校内暴力は、夏目漱石の時代にも、ぼくの父の時代にも、ぼくの時代にもあった。
 父は小学校二年で事件を起こし退学になったが玉木西涯という人がいて、その人がたまたま天草に遊びに来ていて、──後に竜谷大学か大谷大学の偉い先生になった人だが、その人に可愛がられ、すっかり信仰し、その人の感化をうけて漢学をやりはじめた。それはたしかに感化といってもよく、その人の導き方次第で人間というものは、その人生を左右することがあるものだ。
 玉木先生は学間の道については非常に厳しい先生だったけれども、こっけいなところのある面白い先生だったと思う。父に聞いた話だが、例えば、あいつを殴ってやるとか、あいつをやっつけてやるとか、そういう話を聞きつけると、玉木先生は「やれっ!」とけしかけるそうだ。けれどもケチなやり方は面白くないから、昔の果たし合いのように幕を張って、「お前はあっちから、お前はこっちから入ってきて、やれ」という。いざ果たし合いとなると、三味線を弾くというお膳立てまでできている。もうそれで気勢をそがれて、やる気を失ってしまう。すると先生が、「お前ら、なんでやらん。三味線は応援団なんだから」という。そういう名物先生が、必ずどこかの学校にもいた。今でもいると思う。どの先生にも、そういう名物先生になれとは言わないけれども、それも教育の一つの方法だと考える。
 戦後、親がPTAを作ったのはいけないとはいわないけれど、名物先生が少なくなった原因の一つではないだろうか。子どもが先生に頭を叩かれたからといって、血相変えて学校にねじ込んでくる親がいるそうだが、ぼくらの時代の親とは正反対だ。先生に殴られたなどと親に言おうものなら、親からも殴られた。
 昔は、学校の先生といったらそれは偉いものだった。特に校長先生にもなると、大変なものだった。毎朝、全校生徒の前で訓話をしなければならない。その苦労たるや大変なものだと思う。ぼくら、三六五日やれといわれてもネタ切れになってしまう。訓話のネタを見つけてくるだけでも、勉強しなければならない。話し方が下手であれ上手であれ、勉強しなければならなかった。
 先生方に昔に還れとはいわないけれども、昔を忘れるなといいたい。昔に還れといっても過ぎ去りし歳月と、気質は還らないものだから──。
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