107 わが“男の顔”論
    年が当てられる顔は一番幸福な生涯を送っている
出典:致知 4月号(通巻81号) 昭和57年4月1日
鏡の顔は自分ではない
「顔」というものは自分だけには見えないものである。人間の顔以外の体というものは、どこでも見ることができるのに、その肝心の「顔」だけは自分で見えない。
 ある人が、「そのために鏡というものがあるじゃないですか」というが、それは鏡に映った顔で、自分の顔といったら、えらいことになるであろう。
 鏡に映った顔は自分の顔とは違う。それは色も違うし、左右も反対である。
 世の中の人が、いい気になっていられるのは、鏡に映った顔を見ているからである。であるから、顔というものは、人が見た顔でなければ顔ではないわけである。自分がいい顔をしているとか、悪い顔をしているとかは、人の顔を見て判断する以外に仕方ないわけである。
 そして、顔にも流行があり、一定不変のものではない。黒田清輝や伊東深水という立派な絵かきの描く明治時代の美人が、今でも残っていて、その顔をいいと思う人がいれば、現在、流行している今様の顔でない。つまり芸術そのものの顔である。
 この頃は、あまり悪い顔というのもなくなった。みんなどの人も、いい顔にする術を持っている。そしてみんな同じような顔になっている。
 非常な美男、美女もいなければ、非常な醜男、醜女もいなくなった。みんなそこそこな顔をしている。
 それは国がよくなった、ということではないだろうか。食糧事情もよくなり、栄養分も十分に摂り、今の人は手も足も伸び伸びと引き伸ばされて、誰の顔も同じに見えてしまう。人間の顔が画一化されている時代なのであろう。
 戦前の日本人というのは、みんな引き締められていた。体も顔も、みんな伸び伸びとしていない。逆に圧縮されているから、その顔にも特色があった。
トルストイとルナールの顔
 話は変わって、ロシアの文豪にトルストイという人がいるが、彼は見るからに『戦争と平和』という大作品を書きそうな顔をしている。ところが、『にんじん』を著したフランスのルナールは、いかにも貧弱な顔である。
 それで、どちらが得をしているかといえば、ルナールの方が作家としては得をしている。ルナールみたいな顔だと、人は簡単に自分の弱点をみせてしまう。弱点をみせるということは、その人の本来あるところのもの、つまり、本音をみせてくるということである。
 そして、人間はトルストイみたいな顔の人の前に行くと、「こういう立派な人の前で、こんなくだらない話をしたらさぞ馬鹿にされるであろう」と、その顔に合う時は自分を武装してしまうわけである。
 ルナールは子どもの頃から、そのつまらない容貌で馬鹿にされていたように思われるし、大人になっても、そう大家のような顔はしていない。しかし彼は意識する、しないにかかわらず、他人の方が特に自分に対して武装しないわけだから、努力しないでも人の気持がつかめる。裸のつきあいができる。
 トルストイのように相手が武装してくると、人の心がつかみにくい。この違いが顔にみる損得である。
 ここで問題としているのは、トルストイの芸術がいいとか、ルナールの芸術がいいとかいうのは別にして(芸術作品としてはいずれも立派である)、そういうものに到達するということが、ルナールは、あの顔を持っているがために、トルストイよりずっとラクに到達していたということである。
 これを現代の日本の政治家に当てはめると、ルナールが渡辺美智雄氏で、トルストイが河本敏夫氏に近いような気がする。渡辺さんはいい顔だと思うが、どこかそこいら辺にいる隣のおじさん、という雰囲気があり、こちらも、あの人のいうことならフッと聞いてしまうところがある。
 ところが河本さんに対して、渡辺さんのような応対はしないと思う。ここまでが顔の損得についての話である。
 さらに顔の話を進めれば、第一印象であまり美しいと思っていない人の顔が、その人の話を聞いている内に「なかなかのもんだ」ということがわかってきて、その人がきれいに見えることがある。相手の顔が三角なものが、丸くなるわけもないし、四角なものが長くなるわけはないんであって、第一印象であまりよい顔ではないのは、相変らずその通りであるのに……。
 しかし、その人の人格にふれ、その人の考え方なり、いい事にふれてくると、こちらの方が周囲を問題にしなくしてしまう。醜美を超越したものを持ってくる。
 だから、僕は「いい顔」は誰にもできるものだと思う。自分が一生懸命に立派な考え方を抱いたり、おろそかに物を与えないという生涯を送ってゆく人は、周囲なんかは問題ではないということを相手にさせることができる。そういう意味での顔の魅力は感じる。
 最後になったが、私が顔について感じることは、やはり年寄りというのは年寄りの顔をしているのが一番いい。「あなたの年はいくつですか?」と聞かれた時に「私は五十ですよ」といえば、「そういえば五十の顔をしている」と相手に感じさせるのが、一番素晴らしい。他の人が、その年が当てられるような顔がいい。
 シワが多いとか、少ないとかは天の恵みであって、年齢は年齢相当にみられる顔というのは、一番幸福な生涯を送った人の顔だと思う。
 七十になっていて「わあ、六十ぐらいにしかみえない」というのは、ちっとも自慢にはならない。とにかく人間、自分の顔には甘い。(談)
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