113 人の心を「読む」技術より「読める」時の来るを待つ | ||
出典:実業の日本 9月1日号 昭和57年9月1日 | ||
作家であり人生相談の回答者でもある森敦さんは「人の心を読む」ことをほとんどしないという。それなら二人の人間のふれあいで大事なことは何か。その点をじっくリ聞いてみた。 |
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本誌 森さんは初対面の人を見る場合どんな点に、一番注意をくばっておられますか。 森 その人の顔を見ても、千差万別ですよ。僕が旧制第一高等学校におりましたとき、試験を受けに来た生徒を見て、こいつは入るとか、こいつは入らぬとか賭けをしたんですよ。いまでは、東大でも1000人も入れますから、とてもそんな賭けなんかできませんが、第一高等学校のときは、ものすごく人数が少なかったから、賭けた受験生が本当に入っているか落ちているか調べることができたわけです。 そのとき、「服装を正し、帽子をきちっとかぶって、見るからに模範青年というやつは入る。帽子をあみだにかぶって、ガラガラと引きずる歩き方をして、斜め上を向いて口が少しあいているようなやつは入らぬ」といって賭けた。 ところが、それで当たったためしがない。およそ服装なんか標準にならないということが、そのときわかったですよね。 本誌 それは、どういう理由ですか。 森 どういう理由だかわかりません。俗に「人は見かけによらぬもの」といいますが、なるほどそういうもんだなと、実感として知りましたね。 実例を挙げると、長谷川如是閑という大変偉い人がいますね。社会評論家としては第一級の方でしょう。初め、『国民新聞』に雇われて徳富蘇峰の下にいた。徳富蘇峰という人は、非常に潔癖なきちっとした人なんですが、長谷川如是閑という人は、たばこを消すのに、たばこ盆を使わずに、必ず仕事をしながら、机にねじつけて消すような人なんですね。蘇峰はそういうことを特に嫌った。結局、長谷川如是閑はクビになったわけです。 菊池寛も、博文館の記者をしていましたが、たばこをむちゃくちゃ吸って、灰がポトッと落ちてもいっこうとんちゃくしない、ほったらかしにしておくような人です。だから、おそらく机の上も、ものすごく乱雑にいろいろ積んでおいたかと思うんですよ。服装もだらしがないわけです。 本誌 二日も三日もふろに入らなかったといわれてますね。 森 そういうことはないんじゃないですか。毎日入っておっても、不精ひげ生やしたりなんかしている。パリッとした様子を僕は見たことなかった。ちょうど僕みたいに、何だかだらしなく見えるわけです。 それで、結局うまくいかなくなったか、首を切られたか、そこのところは、はっきりわかりませんけれども、博文館をやめたんです。 もし、徳富蘇峰が長谷川如是閑の首を切らなければ、『国民新聞』はもっと続いただろうと、よくいわれていますね。彼はやがて、『朝日新聞』に入って社説を書く。大いに健筆をふるって、朝日が今日の大をなす一因となったわけです。だから、『国民新聞』は、えらい人を手放してしまったわけです。博文館は、当時は、出版社の中で第一級でしたが、もし菊池寛をクビにしなければ、なお栄えたといわれていますね。 だから、人を見るということも、にわかに判断することはまずいと僕は思う。食べ物を口に入れないで嫌だとかなんとかいうのと同じだと思う。やっぱり口に入れて、しゃぶってみて、かんでみて、そして初めてわかる。 だから、僕は、見てくれから人を判断する術はまったくないと思う。だから東大を出たとか、早稲田を出たとか、慶応を出たとかいうことによって、われわれはやっと判断しているんです。それが学歴の差別になってきていけないことだとわかっているけれども、その依ってきたる原因は、人は見ただけじゃわからぬからですよ。 |
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本誌 作家として、たとえば『月山』の登場人物を設定したとき、表情によって性格を決めようと思ったことはありませんか。 森 僕はありませんね。 とにかく月山の山の中の農村はみじめなものでしたよ。いまは違いますよ。当時、僕が行ったころの山の中というのはまず第一に食べ物がない。十分に栄養のあるものをとらないで、山菜みたいなものばっかり食っているから、見たところ、みんな背が小さい。 ところが庄内平野におりていくと、なんといっても栄養がいいから、背がぐっと大きいんです。頭一つぐらいは違いますよ。第一、庄内平野に行くと、女の人がものすごく美しいんですよ。山の人は美しくない。 僕は、そのとき、人の顔を見て、こういうこと思ったんですよ。なんとなくのびのびと伸びてくると、人はみんな顔が似てきて、鼻もスッと筋が通り、きれいな顔になるんです。 だから、顔で特色を出そうと思ったらつぶしたらいいんです。人間を圧縮するんです。山の人間は重たい荷物を運ばされて、圧縮されている。だから、とてもじゃないが、現代の標準からいうと、きれいな顔はしていないんです。 あるとき、僕の人形を、有名な女の人がつくってくれたんです。それが、僕にものすごく似ている、そっくりなんです。この人は僕と会ったことがない、テレビなんかで僕を見ていて人形をつくった。それなのに、僕のいろんな特徴をとらえているのは、少しつぶしてあるからなんです。もう少しかっこうよく、足なんかスッと長くつくったら、特色をとらえきれないわけです。 僕は、僕の人形みたいにずんぐりつぶれた人を見ると、初めはどうしてもあまり尊敬できないわけです。 |
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森 人間というのは、なんといったって、見てくれで解釈しますからね。庄内の青年たち、少女たち、じいさん、ばあさんの方が尊敬できるんです。 その上、いまはもう違ってきましたが、そのころ、山の中の人たちは学校にもやってもらってない。だから、同窓会というと小学校の同窓会、同級生というと小学校の同級生のことなんです。小学校だけですから、知識もものすごく乏しいわけです。 平野部に行きますと、ピカソといっても、絵がわかるかわからぬか知らぬけれども、「それはだれですか」などとはいわない。「ピカソ、そんなの僕にはわからない」というようなことはいう。わからないということは、ピカソの名前は知っていることなんです。いろんな意味で知識を持っているわけです。 山の人はピカソを知らないから、「ピカソはわからない」とはいわない。こちらがいっても、キョトンとしている。 ただ、山のじいさんたちは、学校の先生から教わった言葉とか、何か胸にこたえる一つの言葉を持っている。その言葉によって一生通していくと思うんです。 当時、杢右衛門という人がいました。雪の中で一人で働いているんです。雪のときは、普通は冬ごもりして、家の中で仕事をする。外はそんなに出歩かないわけです。そのことは、山の人の場合、スキーなんかもあまりしない。それなのに、その杢右衛門さんは一生懸命に荷物を担いで雪の中を歩いているんですよ。とにかく雪の中で、湯気を出して汗をかいている。 そこで僕は「あんた、何のためにこんなにして働いているんだ」と聞いてみた。「いや、私は小学校の先生から『運ぶ』と書いて『うん』と読むと教えられた。だから、運ばないと運ができることはない。人は冬休みをするかもしれないけれども、私は冬でもなんでも、運ぶことが運のもとだと思うから運んでいる」というんです。その人は、それ一つ知って、それで、一生を貫いてきているんです。現に僕の目の前でも、そうして生きているんです。 僕は、小説を書くときは、そういう人以外は書かない。だから、この人はこういう人だからこういう会話をするだろうという会話は一つもない。それぞれが、つまらぬながらも一つの言葉によって人生を貫いてきた人、それは三つの言葉でも、四つの言葉でも、10の言葉でもいいけれども、僕はとくにその人が一つの言葉によって貫かれている人しか登場させないんです。 本誌 確かに、そういう意味での言葉でしたら、その言葉によって人を判断できますね。 森 現に、いう言葉がそのとおりだから。そうすると、なるほど、遠い人生を歩いてきて、重くなった人生を杢右衛門さんは背負ってきているなと思うわけです。 |
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本誌 森さんはラジオ、新聞などで人生相談を担当されていますが、この質問者は本気で相談しているのか、それとも、そうでないか、わかりますか。 森 それは全部本気です。 僕は、自分が担当するまでは、ああいうものは、なんとか勝手につくったものだと、信じていました。 いま読売新聞で、橋田寿賀子さんとずっと一緒に「人生案内」を書いていますが、これなど、僕は、記者がおもしろくつくっちゃうんじゃないかと思っていたら、まったく違うんですね。 読めないような字で、読めないような文章で書いてくるんです。まったく体を成していないんです。それが直されることはありますし、枚数がそこに入りきれないと記者が直しますけれども、テレビでも、ラジオでも、新聞でも、案外本当なのに驚きますね。 本誌 それだけ相談者の気持ちの動きはつかみやすいと思いますが、まず、どういうところでそれを読みとりますか。 森 僕は、どんな人でも、相談をしようという人はしょげている人、人生に落胆をしている人だと思うんです。こうやって真剣に電話をかけてくる、真剣に投書をしてくる、真剣にテレビに出てくるという人は、とにもかくにも人生に対して落胆している人だと思う。 この場合、なんとかしてその人を鼓舞激励し、人生というものは落胆すべきものじゃないということさえいってやれば、小さいことはどうあれ、いいんです。ある意味では、人生相談なんて、人の性格やなんかを読む必要ないんです。 本誌 相談者が納得しているなと感じる場合と、本人はまだ納得していないかもしれないな、と感じる場合とあるでしよう。 森 僕の場合は、それはないですね。たとえば、「仕事がいやで会社をやめたい」という。仕事がそんなにもいやならやめてもいい。いいけれども、やめるということほど、いつでもできることはないんです。夫婦でも、結ばれて一緒になることはむずかしいけれども、結ばれたものがほどけちまう、逃げちゃう、これはその人にとって、いつでも自由にできることなんですね。 自由だということさえ、知っていれば、いつでも逃げ道があるわけです。私は、無理に一緒になれ、なんていいません。あなたはいつでもやめられるんだから、もうしばらく、がんばってみろ。やめちゃうと、いままでがんばった分がムダになるから、がんばってみろという言い方をします。 そんなこといっているうちに、元気になっちゃって、「何かわからないけれども、元気になりました」「じゃ、元気出してください」ということなんです。 |
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本誌 そのときに、相談者の心を読む努力をしますか。 森 いや、しません。かえって読んではまずいんです。 たとえば、このごろの中学校の先生、あるいは管理職になっている人は、意外にヘタですね。それは、人の心を読もうとするからですよ。だから、こっちがこびへつらっているんです。 僕も管理職になったことがありますが、わりに成功していました。ある会社におったとき、僕の部屋だけ部下が六〇人になってしまった。それは、この人間は使い道がないとかいうと、その上司は転勤、あるいは左遷させようとするわけです。 そういう人をみんなもらっちゃったんです。しまいには上司と気が合わない女の子ももらっちゃって、かえって足手まといになったこともあったが、結局それで、ものすごく大きな課になった。 だから、いざとなったら、ほかの管理職の人なんか、僕に勝てなかった。後ろに、一大軍団が控えているんですから。少数精鋭という言葉もあるけれども、人海戦術という言葉もある。少数精鋭なんていうものは、人海戦術の前にはもろいものですよ。 ただ、この人たちは僕のところに、はねのけられてきたんだ──これだけははっきりわかっている。僕は、その理由について、細かいことはわざと聞かないんです。 しかし、「こういうことでいやだから」という理由を分析してみると、大体、「虫が好かぬ」というだけですよ。 女の子に、「お茶を入れろ」といったら、ドーンとお茶わんとやかんを置いて「あんた、つぎなさい」といった。以来その上司と女の子は虫が好かぬことになったというのです。肝心なことじゃないんですよ。 このことを裏返すと、こわいことは、人というのは実につまらぬところで読まれてしまうということですね。 |
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本誌 部下の気持ちを読もうとしちゃいかぬということは、読まなくても、そこで感じるようにならなくちゃいかぬということですか。 森 いや、そうじゃなくて、この人たちは、なにか人生に落胆しているわけですよ。私の課へ来た人たちも、会社のなかで、はねのけられたと思っているわけです。でも、そういう人こそ見込みがあるんです。だから、根本的にこれらを鼓舞激励して、君たちがおることによって、僕がどんなに助かるかということを彼らに示すんです。「読む」というより「示す」んです。 実際、どんな人でも、たとえば「誠心誠意」といったような、心の支えとなる言葉を、一つぐらい知っていますよ。ただ、その一つがバカくさくてできないだけです。これで人生を押して一生を終えることは、できるかできないかわからぬけれども、一つぐらいはできるんだということを信じてあげることです。それを示してやることです。だから、読心術なんていうんじゃなくて、少なくとも一つのことはできるんだということを信じてあげることです。偉い人はみんな不思議に、そうやっていますね。孔子とかお釈迦様とかは、とっても単純なんです。人間は救われると信じているから、救いきるんです。病気でも、治ると信じているから治っちゃうというんです。 お釈迦様の弟子の中に、パンダカというのがおる。この人は、何 をやらせてもできない。だから、みんなからバカにされた。 あるとき、お釈迦様に、「あんた、掃除してごらん」といわれて掃除をした。 お釈迦様は、「ああ、きれいになったね。掃除はできるじゃないか。あんたは掃除をしていればいいんだよ」といわれた。 そしてバンダカは、一生迷わず掃除しちゃったんです。そのため、釈迦の十大弟子の一人になって、バンダカという名前は今日まで残っている。 けれども、人間というのはちょっとしたことでくさってしまう人がいるでしょう。それは、世間や同僚の中のだれかとか、何かがくさらせたわけです。 その理由は、あれの顔がペチャンコだから嫌だとか、鼻が低いから嫌だとかいう、つまらぬことだ。ところが、鼻が低くて口ばかり大きいからタレントになっている人もあるんです。あれが、あたりまえの顔をしていたら、なれないんですから。 本誌 しかし、人間にはつまらぬことを気にする心理状態かあって、そうは割り切れません。 森 それには、こちらが先に札つきになったほうがいいんですよ。酒を飲むやつは、酒飲みだということを隠すんじゃなくて、早くから、みんなに知ってもらう。 そうすると、酒を飲んだうえでなんだかんだいったって、「ああ、そうか、あいつは酒飲ませたらダメなんだ」といって許してくれるんです。 上に立つ人も、下の仕事につく人も、人間はなにか弱点を持っていますから、それを札つきにしてしまうんです。 |
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本誌 すると、他人の気持ちを読むということには反対ですね。 森 僕は、あまり読もうとしないんですね。子供のときから、人の顔を見て物をいうな、というかたい教えを受けてきた。人の顔を見て物をいうほど卑しいことはない、人の顔など見ずに信じていけ、という訓練を受けたんです。だから、おっしゃるとおり反対みたいなんですけれども、実際は反対でもないんですよ。 そういう信念のうえに立てば、不思議に人というのは、向こうがいいところを見せてきます。だから、いい感じで友達になれる。僕は、あまりいいことをした覚えはないんだけれども、一回友達になると、わりと続くんですよ。 たとえば、テレビとかラジオとか、新聞社で会った人、取材に来た人、そういう人とは続かぬことに決まっているそうですね。「いや、こんにちは。この間はどうも失礼しました」というようなことは、お互い言うけれども、本当の友達にならぬということを、三好徹君が書いているんです。「にもかかわらず、『読売新聞』の記者として森さんのところに行って、今日まで続いているというのは例外中の例外である」というようなことを、彼は書いているんです。 それは一つには、僕は、あまり顔を見て物をいわなかったということ、それから、初めからまったくの札つきで、向こうが観念してかからなければ僕とつき合えませんから、観念してくれているわけです。だから、相手を読むというより、そういうことを相手に読ませた方がいいんじゃないですか。こちらは、虚心坦懐になって読ますわけです。 僕はこういうふうにして、鳥をつかまえたことがあるんです。僕が林の中に立っている。なにか不思議な顔をして、鳥が枝にとまってこっちを見ているわけですが、知らぬ顔をしてずっと立っていると、鳥はもうちょっと近い枝に来るわけです。しまいに、肩にとまったり、頭にとまったりするんです。そうなったら、自分の手を出せば手にもとまるから、頭をなでてやっても迷げないわけですよ。 これと同じで、最初は虚心坦懐で、簡単に人の心なんか読まない。それでも読むべきときが来るわけです。そのときじゃないとダメです。 僕は月山の注連寺にいて、あの注連寺の村のあらゆる人と付き合いました。けれども、一回もこっちが行ったんじゃないんです。いつも寺に一人でおって、村なんか歩いておってあいさつするぐらいでした。何も話そうともしないから、不思議に思って寄ってくるわけです。一人が寄ってくると、またもう一人寄ってくる。それで友達になれるのです。そうしたら、読もうとしなくても読めるようになってくる。 本誌 ありがとうございました。 |
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