121 「落ち込む」ということ 森 敦
出典:実業の日本 昭和58年4月15日
 最近、サラリーマンの間で、「落ち込んでいる」という言葉がよく使われているそうである。言葉がある以上、そういう実態がビジネス社会にあらわれているのだろう。そうでなくとも、木の芽どきになると、この種の現象があちこちで見られる。ことしは暖冬だったから、よけい早く目立つのかもしれない。
 よく考えてみれば、自分を「落ち込んでいる」と思いつめているのは、かなり一面的な見方である。人生、サイン曲線に似て、山もあれば谷もある。それもふしぎと、山と谷とが交互に訪れるものだということを知らない。
 僕は二〇代のころ、鰹船に乗っていた。魚は逃げるとき、必ず体をひねる。そのひねりがエネルギーになって元に戻るとき、前進する。つまり、ひねりという、一見前進姿勢に関係のない動作が、前進をもたらすのである。
 尺取り虫は、進もうと思うとき、体を屈する。これは、傍からみると、いかにも身を締めているように思える。つまり、落ち込んでいるかに見える。ところが、この縮みがないことには前に進めないのだ。前に進む前工程として、身を縮めるのである。
「落ち込む」ということは、次のハードルを跳び越えるための準備であることを知らねばならない。
 昔、犬養健という人がいた。第一議会以来、常に代議士に当選してきた政友会総裁犬養毅(木堂)を父にもっていた。彼はもともと文学に造詣が深く、作家として嘱望されていた。結局、父の秘書になったため、筆を折らざるをえなかったのだが、そうなる前の話である。
 あるとき、彼は壁にぶつかり、どんなに書こうと思っても、筆が前に進まなくなってしまった。作家のスランプである。そこで、当時、奈良にいた志賀直哉を訪ねて、その悩みを訴えた。志賀さんは、言下に諭したそうだ。
「ばかいうんじゃない。書けなければ書けないところにいればいい。自然に起き上がってくるものだ」
 当時、志賀さんは名作『暗夜行路』を執筆中で、あと三〇枚書けば脱稿できるというところで行き詰まっていた。主人公時任謙作を生かすか殺すかで迷っていたのである。悩み続け、書けないところに留まること一〇年、この後ようやく三〇枚を完成したのだった。それだけに、犬養さんが訴えた悩みなど、とるに足らぬものだったろう。一〇年、三〇枚のために留まっているのは、さすがに大作家である。その前にあっては、「落ち込む」などと、そう軽々しく口にできないはずである。
 そのころ、僕も奈良にいた。そこで一人のお爺さんと知合いになった。東大寺の寺守りのお爺さんだった。彼は、日露戦争の話をよくしてくれた。戦場で大砲の弾丸が飛んでくるとき、猛烈な音響をとどろかす、そこでセル・ショックを受けると呆然として、精神病になる。それを避けるためには、「勇敢なる兵を見よ」と、上官から教えられたという。いわれた通り、周りを見ると、ふしぎに一人くらいは「勇敢なる兵」がいる。するとなぜかしら勇気が湧いて、セル・ショックから逃れられるという。つまり、自分を強制的に「落込み」から救いあげるのである。
 自称「落込み」サラリーマンは、これだけの自己防衛の手を打っているだろうか。セル・ショックは極限の状況だから、そのままいまのサラリ−マンにあてはまらないにしても、落ちたところで、じっと留まるだけの忍耐力があるだろうか。
 この種の忍耐力は、がまんから出てくるものではない。「身を屈(かが)めることは次に伸びるため」ということを、真底から悟ることによって生まれるものだ。この認識が、「落込み」から救うのである。
 このことは、会社についてもいえる。経営ピンチに落ちた企業は、それをチャンスに冗費節減、人件費節約をすすめる一方、労使が危機意識にもえて結束するから、必ず再建が約束される。一番怖いのは、こういうピンチもなく、かといって好調な時もないという企業だ。旧財閥系の小さな企業で、いつのまにか、消えてしまうところがあるが、これは好不況の振幅の少ない場合が多い。これは決して、ほんとうに浮沈が少なかったわけではない。実際にはありながら、労使が鈍感なために、気がつかなかっただけである。自分たちの企業が、サイン曲線のどこに位置しているのか、それが分からないようでは、手の打ちようがないだろう。
 よく人は、ツキということをいう。彼はツキはじめてきたとか、あの会社の経営者はツイているとか、無責任にいう。が、ツキというのは、しょせん自分で自分をサイン曲線に合わしているにすぎない。ツキがなければ座して待てばいい、ただし、それは手を拱いて待つということではない。谷があれば山がある、ピンチが来ればチャンスが来るという強い信念に燃えてはじめて、ツキを呼ぶことができるのだ。
 逆説的かもしれないが、伸びようとすればまず屈することである。屈することを知らない人間は、「落込み」から這いあがれない。というよりも、永久に沈み込んでしまうだろう。
 高度成長時代、日本人は屈することを忘れてしまった。いま、そのほんとうの意味を再認識する時だと思う。
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