123 生きたいように生きた だから何の悔いもない | ||
出典:リクルートNEWS 昭和58年5月5日 | ||
私は小説家になるつもりなんてまったくなかったんです。たまたま一高をやめてぷらぶらしていた時に菊池寛さんに会って小説を書いてみないかと勧められた。それで初めて書いた小説が毎日新聞に載った『酩酊船』。 私は人間としてせっかく生まれてきたんだからしっかり生きて日本の中だけでもよく見ておきたいと思っていた。だから日本中のあちこちで暮らしてきました。 生まれが九州で雪を知らなかったから見たいと思って新潟へ行きました。毎日がどんよりしていて気にいらなかったので山形へ行きました。ここは風が荒々しくて雲の形がいいんですよ。 北海道へも樺太へも行きました。北方民族と一緒に暮らしたりもしました。日本中で行っていない所はないと思うな。 “行った”だけじゃなくて私はその土地で生活しているんだ。ちゃんと家を借りてね。一日、二日、遊びに行ったってその土地のことはわからない。生活してみなくてはわかりませんよ。 戦前は親や菊池さんが金を出してくれてそうした暮らしをしていたんだが、戦争が起ったでしょう。お金があってもぶらぶらはしていられなくなって仕事をしました。 でもずっと仕事を続けるつもりはなかったんで十年間だけ働こうと思って勤めた。十年勤めてお金がたまったら十年遊べる。そう考えてね。 実際にそうして十年働いて十年遊ぶを繰り返してきました。光学会社に十年、十年遊んでダムを作る会社で十年、また十年遊んで印刷会社に入って。今もその印刷会社に勤めていることになっていますよ。仕事しには行っていないし、月給ももらっていないけれど。 |
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十年経ったらやめるんだからいい加減にしておこうと思う人もいるだろうけど私は十年だから一生懸命働こうと思いました。 心構えとしては辞表を懐にというのと同じで覚悟を決めていましたね。それに働く以上、そこから何かを学んでやろうと思っていましたから。 だから十年間勤めれば金がたまった。ヒラで入社してもやめる時にはちゃんと地位を持っていました。やめる時には残念がられてやめましたよ。たった十年といってもイヤイヤではなく、本当に真剣に働いていましたから。 働くということは何かをひとつ得ることだと思うんですよ。そして遊ぶことも同じ。何ひとつ得ることなく遊ぶなんて遊んでいるとはいえません。 私は空を見たり、雪を見たり、川を見たりして遊んできたけれどそれはみんな役に立っています。遊んできたことを書いて今は生活しているんですから。 私は大学に行かなかったけれど進んできた所、働いてきた所で人生の大学に行ったと思っています。社会の大学をいっぱい出たと思っています。各地の人々から寄せられてくる愛情も大事な財産と思っています。 遊んだり、働いたり、自分のやりたいように生きてきました。結婚したい人と結婚しました。暮らしたい土地で暮らしてきました。だから私の人生、何の悔いるところもありません。これからでも何かやりたいという気持ちが起きたらそれをやってやろうと思っています。 だから若い人たちにも本当に自分の好きなことは何かを問いかけ、それを見つけてほしい。見つけたら、自分のやりたいように実行していく。それ以外にどうやって生きていくんですか。やりたくないことをやって生きていくなんて、人生、つまらんでしょう。 (談) ●プロフィール 本名・森敦。明治四五年、長崎市銀屋町に生まれる。中学時代は秀才で旧制一高に進学するも、中退。以後、放浪生活と会社勤めをくり返しながら文学の道へ。昭和四八年『月山』で第七〇回芥川賞を受賞。その他、代表作に『鳥海山』など。 |
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