146 余白を語る
   恍惚の人こそ望み
   がんも怖くはない
             森 敦さん(作家)
出典:朝日新聞 昭和62年12月18日(金)
 ぼくはきちんと「華厳経」をよんだことはありません。が、そこにはいかにして恍惚(こうこつ)になるかが述べられているんです。人間は本当に悟りを開いたとき恍惚の人になるんです。
 道元の「正法眼蔵」も恍惚になることを説いている。恍惚とは、死ぬか生きるか生死の境界線がなくなって、ねむるがごとくあの世に行けることです。ボケ老人願望なんだな。もうぼくはなっているかもしれませんがね……。
 弘法大師空海はこういった。「生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死んで死の終りに冥(くら)し」。生と死はお互いに対応し、陰陽をなしつつ交代する生死一如の世界を説いています。輪廻(りんね)とは永遠の生への願いから生まれた素晴らしい考え方ですね。
 若い時は、からだがまだ恍惚になっていないから、難行苦行や座禅、ヨガなどの修行をやって悟ろうとする。老人になれば、肉体が恍惚になっているから悟りやすい。生と死とがおのずから背中合わせだ。だからぼくは、がんといわれてもこわくない。
 ぼくの中学の同級生が医者に胃がんといわれた。手術したら一年、手術せずに大事にがんを飼っていたら六年間もつというんだ。年をとるとがんも栄養がないから増殖しない。ばくは七十五歳だから、六年といえば八十一歳まで生きられる。胃がんだからあまりたべられない。酒を飲む。時たまウナギのかば焼きをたべる。生死が一如となって、安心立命の境地なんだな。
 放浪している若い時東大寺に滞在したことがある。大きな釣り鐘があった。当時五銭だすと鐘がつける。鐘がゴオーンと響く。一体、鐘の内に入ったらどんな音なのだろうと入ってみた。すると、ある一点に立つとまったく音がしない。静寂なんだな。これが「空」であり「無」なんだなと思った。外部では鐘の音が宇宙に広がっていく。この鐘の音に「空」と「無限」のある種の象徴があります。
 西洋の鐘は内部で鈴がぶつかってベルの音となる。音は美しい。だが日本の釣り鐘の音のふくらみはないんだな。恍惚という悟りは、生と死、主観と客観が同じ長さのベクトルとなって一致するんです。釣り鐘の内部の静けさは、そうした恍惚の状態じゃないのかなぁ。
 ぼくは六十歳まで各地を放浪して歩いた。六十一歳のとき小説「月山」を書いた。芥川賞を受賞したら、なんでこんな将来がない年寄りに賞なんかやるんだと悪口をいう人が多かった。七十一歳になってから四年かけて、また千八百枚もある「われ逝くもののごとく」を書いて野間賞をいただいた。来年は「奥の細道」という芭蕉をテーマにした書き下ろしを書くつもりです。
 ぼくは、恍惚をきらわずに、ありがたいと思って恍惚の人になりたい。それは他人には迷惑かもしれない。だから「楢山節考」のように人に捨てられるよりも、「方丈記」のように山に入って小屋を作って住んでみたい。自分で自分を捨てることが理想なんです。
 作家の深沢七郎さんは恍惚なる生き方をした人ですよ。晩年不思議な恍惚とした作品を書いている。
(聞き手・西島 建男編集委員)
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