012 62歳の“超新人” 書斎は山手線 39年目の芥川賞
出典:東京スポーツ 昭和49年1月18日(金)
 もりあつし
 明治45年1月22日、長崎生まれ。
 旧制第一高等学校文科中退。「学生時代から菊池寛さんのお世話になっていた」
 作家志望で横光利一らと交友を結び、昭和10年、新聞に連載小説を発表するほどの新人作家だった。
 エドガー・アラン・ポーの影響を受けていたが文学的模索をしているうちに、漂泊の旅に出て「何でも体験しよう」と兵役を志願したりする。「つまり無思想なんですね。体験のためなら軍隊でも監獄でも入ってやろうと──」
 “口三味線” “えばる性格”はどこにでも通用するラッキーに恵まれて、光学関係、土木関係の、手をよごさない仕事にたずさわったり、古寺にこもる数十年の歳月。どの時期になにがあったかはいっさい不明。一種の時限記憶喪失症。
 ここ一、二年になって「思い直して書こうと思い」小説を再び書き出す。文学仲間の古山高麗雄、小島信夫、三好撤らにも突き上げられたようだ。
 受賞作の『月山』は山形の月山山中の寒村の古寺で雪を見、冬を過ごした“私”を通して村の生活や自然を幽玄的に描いたもの。
 勤務先は近代印刷KK、東東・調布市に住んでいる。
 
 芥川賞が作家の登竜門、という解釈で了解するなら、森さんの受賞はなかったろう。あと数日で六十三歳になる明治生まれという年齢的なハンディキャップがある。
 と同時に、芥川賞が設定された昭和十年、この人は一度は作家になっていた、のだった。
 当時の文壇の大御所である菊池寛に可愛がられていた。横光利一、川端康成、檀一雄、北川冬彦といった売り出し途上の作家連と交友していた。
 昭和十年、毎日新聞に『酩酊船』という連載小説を発表している。
 この人、全性格が強引そのもの。「自分の人相を見て判断してくれ」というタイプで、人生を押しきってきた印象が強い。
 「新聞小説だって、横光が見なくても大丈夫、と推せんしてくれたので…」あふれるばかりの自信で周囲を煙に巻いた。
 昭和十年、檀一雄、太宰治、津村信夫、中原中也らと同人誌『青い花』の創立メンバーでもあった。その文筆にかける自信は、芥川賞受賞といったレベルではなかったようだ。
 それから、太平洋戦争をはさんだ昭和期の数十年。放浪に放浪を重ねた人生。およそ、40年ぶりの芥川賞受賞。選考委員の丹羽文雄氏の弁を借りると「六十歳過ぎた人に賞をやるのは、という反対意見をはね返すような作品。とにかく清烈で凄さのあるもの」と絶賛された。
 昭和十年の新聞小説一編。それから全くペンをとらずに、昭和四十九年になって芥川賞。
 森さんは、こともなげにいうのだった。
 「僕は人生を二度体験しているんです」
 この人には、伝説がいくつもある。「書ける」「書こう」約束はすぐする。しかし、ペンをとらない。
 奈良の山寺にこもる。あるいは山形の山奥の古寺で、ただひたすら雪を凝視する。哲学論文を書く。何色も色彩を重ねたガリ版刷りの絵を製作する。
 周囲の、一家を成した作家達がその才能を惜しんだ。
 「僕は熱中すると、ムチャクチャにやる性格なんだ。今度もトシだから辞退した方がいいというアドバイスもあったけど、渾身の努カを払ったものだし、出してもいい勇気が出たものだから、こんなわけになっちゃったんだね」
 二十代で、その作家の資質が一度開花して、それを自ら枯れ木にして、六十二歳で、再び咲かせた強烈な文学人生。決してザラにある話ではない。
 伝説ではない本当の話。この人は早朝、山手線でペンを走らせる。ゴトン、ゴトン、鼓動に似た電車に揺られながらコツコツと書く。ついつい同じ時間帯で顔なじみができる。
 「電車で書くなんてかわいそうねエ、なんて若い女性にいわれたりするけど、僕は文学的な友達が多くてダメなんですよ」
 早朝の車内。すいている。「友達に襲われないからいいですよ。それに孤独になりたいからねえ」
 人生を二度味わいたい願望を実践してきた森さん、明治生まれの芥川賞に「いよいよ観念です。年輪ですからね」とひと呼吸入れた。
 若い。頭髪も黒い。
 それでいて、数年前は、毎日コップ一杯ぐらいの喀血があったという。鮮血に、再度、文学に挑戦の気力。やはり、そんじょそこらの人間ではない。
 これから三十九年目の作家活動に入る。「マラソン競技に出て、年だからといって三百メートルぐらいで息切れしないようにやりますよ」と、淡々といった。
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