015 文化ノート 優れた文体と描写力
出典:熊本日日新聞 昭和49年1月19日
 今回の芥川賞は、六十二歳の森敦氏(天草郡苓北町出身)の「月山」と新鋭野呂邦暢氏の「草のつるぎ」の二作に決まった。
 「月山」は、出羽三山(山形県)のひとつ月山(がっさん)を、人生に疲れたような「私」が、ある晩秋に訪れるところから始まる。「私」は山ふところの小さな部落の寺に落ち着き、そこで一冬を過ごす。紅葉に色づいた山の風景が冬の到来とともに真っ白な雪景色に変わる。毎日のように吹き続ける吹雪の下で、割りばしをつくる古寺の“じさま”や密造酒をつくり、飲み交わす雪に閉ざされた部落の人々の生活は、下界の俗世間とは隔絶した別世界である。「私」は荒れた寺の中で障子に目ばりし、紙の蚊帳をつくり、寒さをしのぐ。そして、春の知らせは、富山の薬売りとともにやってくる。
 春になって迎えにやって来たのは「私」の友人だった。彼はこの山に一大レジャーランドをつくるというのだった。
 死の山“月山”の雪の世界を清冽(せいれつ)かつ凄絶(せいぜつ)な幻想世界として描いた作品だ。選考委員の中には、結末で突然俗世界が出てくるのは疑問だという意見もあったらしいが、文体も描写もすぐれているとして受賞が決まった。この作品について、小島信夫氏は「二十年、三十年、五十年、何百年というふうに、…長い期間の中に置くことを許されるのにふさわしいものを、本質的にもったもののように思える」(季刊芸術27号)と絶賛している。
 野呂邦暢氏の「草のつるぎ」は、高校を出て一年ほど東京で働いていた青年が「いまある自分いがいの何かになりたい」という思いを持って自衛隊に入る話である。佐世保に近い海辺の基地で訓練を受ける様子が明せきな描写力で描かれる。匍匐(ほふく)、射撃、銃の手入れ、行軍などの訓練や不寝番などの隊内生活が細かく丁寧に書かれている。仲間には、映写技師とか工事人夫などさまざまな経歴を持った人たちがおり、旧軍隊出身の鬼教官のような人物も登場するが、これといった筋らしい筋はない。描写で読ませる作品といえよう。
 野呂氏は「壁の絵」で四十一年に候補に上っていらい五回目で受賞。前回「鳥たちの河口」で三木卓氏の「鶸」と争い、憎しくも落ちた前歴がある。選考委員の丹羽文雄氏によると、前作は技巧が勝ちすぎていたが、今回はとりたてたヤマもない作品だが飽きずに最後まで読ませる筆力が買われたという。
 直木賞は受賞作がなかったが、この二月は直木三十五の没後四十年にあたるだけに、受賞作なしは寂しい。
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