016 芥川賞受賞の森氏 尾鷲に住んでいた
出典:南海日日新聞 昭和49年(1974)1月20日
 第七十回芥川賞の受賞者二人がこのほど決まった。そのうちの一人、「月山」の作品で受賞した森敦氏(六一)=旧制一高文科中退、調布市布田三ノ五二ノ五、近代印刷株式会社勤務=は昭和三十二年から同三十八、九年までの十年近くも尾鷲に住んでいた。「温厚な尾鷲の土地柄と尾鷲人が好きだった」という森氏は尾鷲を本当に愛した一人であった。受賞が決まった十六日からここ数日間はテレビや新聞にどんどん出ているが、その中で必ず「尾鷲」が語られている。森氏の尾鷲時代の生活を知る地元の人は少なくなく、「森さんのことを知っておどろきました」という。
 当時親しくしていた尾鷲印刷の土井明社長は「うちで下宿していた森さんの受賞を知っておどろきました」と当時の様子を語ってくれた。いつ頃だったかはおぼえていないが、電源開発の事務所が尾鷲に開設した当時に資材担当の職員として尾鷲にきた。「本を書きたいのでどこか静かなところをさがしてほしい」というので、旧尾鷲印刷工場裏のはなれに住んでもらうことになり、奥さんと二人で五、六年住んでいた。風呂と床屋のきらいな人で、時々奥さんに頭をゴシゴシ洗ってもらっていたのを見かけることがあり、一般人から見れば変った人だと思われたが、性格のよい人だった。
 尾鷲印刷気付でくる手紙などは有名な作家や全国紙の論説委員などその道の人が多かった。うちで使う包装紙のザラ紙を原稿用紙用に切ってなぐり書きしていたのをおぼえている。ある時、一週間ぐらい家に帰らず奥さんを心配させたことがあったが、雑誌社から依頼されて一週間ぶっ通しで書いた作品の出来が納得できず「僕はこんな文章しか書けない」と大泣きして話したこともあった。酒が好きで家の中にはビールや酒の空ビンがいっぱいだったが、電源開発の資材購入は「地元の利益になるように」と努めて地元業者に発注していた。とくに尾鷲が好きだった。
 一方、当時電源開発の資材課長をしていた尾鷲商工会議所の坪野専務は「私が尾鷲に赴任した昭和三十三年にはすでに池原との連絡など総務課の仕事をしていた。社内の同僚として電発が引き揚げるまで付き合った」といっており、尾鷲を去る時に「尾鷲のような温厚なところにとどまることはできない」といったという。
 坪野氏は近く森氏に連絡をとって来鷲を要望し、同所の木曜会で「尾鷲の印象」を語ってもらいたいという。
↑ページトップ
森敦関連記事一覧へ戻る
「森敦資料館」に掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。