036 圏点 三人三態
出典:毎日新聞 昭和49年12月23日(土)
 六十一歳で芥川賞作家になった森教は、昭和のはじめ十九歳のとき、横光利一の推薦で毎日新聞(当時の東日・大毎)に『酩酊船』を連載した。いわば一人前の作家になりかけていたわけだが、その後「ぼくは十年光学関孫の会社に働いては十年遊び、十年土木関係の会社に働いては十年遊ぶといったふうにして伊豆に行き、奈良に行き、東北に行き、尾鷲に行き、北陸に行き、また東北に行きしていた」という。「十年働くとあとは生涯遊んでも食えると思いこみ、好きな地方を転々として、気がつくとほとんどカネがなくなっている」という生活の繰返しだったとのことである。おもしろい生きかたをしてきた人である。
 『文壇意外史』(朝日新聞社発行)は、この風変わりな作家の青春回顧で朝鮮の京城中学から一高に進み、一高を飛び出して『酩酊船』を発表するまでをつづっている。
佐藤春夫を訪ねて、「学業を放棄し、みずからを放校したい」といった。金縁の鼻眼鏡をかけた佐藤さんは「それじゃ、メキシコでも放浪してみるんだな。日本にいて親が七十円くれるなら、外国にいても七十円くれるはすだ」といった。玄関まで送ってくれて「メキシコで作品ができたら送るんだね。文学の先輩として、必ず読まずにしまうようなことはしないから」ともいったが、その玄関には「雑誌記者新聞記者の方は面会お断り」の張紙があった。
 菊池寛の家には「新聞記者雑誌記者以外の方は面会お断り」という張紙があった。何度目かの訪問で学絞をやめる決意を述べたら、兵児帯(へこおび)を引きずったような和服姿の懐から黙って七十円握らせてくれた。親もとからの仕送りが絶えるだろうという配慮かららしく、それは数カ月続いた。
 横光利一が毎日新聞に推薦小説を書かそうと、わざわざ森の自宅に連絡にきたが、彼は留守だった。翌日、横光の家にいくと、それまでなかった「執筆中につき面会謝絶」の張紙があった。帰ろうとすると、二階から呼びとめて「ありゃ会いたくないやつに、会わないためのマジナイだよ」といって笑った。
 三人三態、昭和初期の文壇は温かかった。
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