037 マスコミと「解同」タブー
出典:不明 昭和50年4月15日(火)
 「部落」といえば“差別だ”
 
 〈「私」は山ふところの小さな部落の寺に落ち着き、そこで一冬を過ごす。紅葉に色づいた山の風景が冬の到来とともに真っ白な雪景色に変わる。毎日のように吹き続ける吹雪の下で、割りばしをつくる古寺の“じさま”や、密造酒をつくり飲み交わす雪に閉ざされた部落の人々の生活は、下界の俗世間とは隔絶した世界である〉
 ああこの話は──とお気づきの読者も多いでしょう。これは一九七四年度芥川賞受賞作品「月山」(森敦作)のすじ書きを紹介した新聞記事です。七四年一月下旬共同通信文化部で作成し、全国の加盟紙に配信しました。読んでわかるようにここでは人里はなれた村落が描かれているのであって、けっして未解放部落が描かれているわけではありません。
 にもかかわらず、配信をうけてこの記事を載せた新聞ひとつ夕刊フクニチ(本社・福岡市)は、「部落」ということばがけしからんと抗議されました。編集局長は「解同」朝田派の八幡地区協議会に、差別の意図はないと説明にいきましたが、同地協は多数を動員し、つめ寄りました──「『部落』は慣用として未解放部落を意味し、同一語だ」と。
 朝田派は、「特殊部落」を“差別語”として糾弾の対象とするだけでなく、「部落」ということばまで攻撃をかける材料にしてしまったのです。
 これでは、なんでもない普通名詞もうっかり使えないことになります。
 
ミスプリントも“糾弾”対象
 
 朝田派はこうした“差別語”の新造だでなく、単純なミスプリントまでとりあげて“糾弾”の対象にしています。
 一九七三年七月二十九日午後七時のNHKテレビのニュースがこれにひっかかりました。
 「このユースの中で、滋賀県の食中毒事件の記事を取り上げた際“部落解放集会”を“部落開放集会”と誤報した。ニュースの終りに訂正はしていたものの不十分すぎて話しにならない。
 …………
 我々は、これらの事件を契機としてより強固な闘いを進めなければならない。」(朝田派『あいつぐ差別事件』七四年版)
 どの報道機関でも誤植や書きちがいを防ぐためのチェック制度を設けていますが、それでもミスはゼロになりません。気がついたらすぐ訂正するのが誠意ある態度というべきでしょう。「ニュースの終わりに訂正」といえば、ずいぶん早い訂正です。「不十分すぎて話しにならない」といういいがかりこそ「話しにならない」でしょう。
 ところが朝田派は、これに「強固な闘いを進める」というのです。
 このように朝田派がつぎつぎ“差別語”を新造したり、単純なミスプリントをつかまえてまで“糾弾”をやるのは、その口実がなくなったらマスコミへの介入ができなくなってしまうからです。
 
娯楽番組まで自主規制
 
 そのためマスコミ側では、これも「解同」がいってくるのではないか、これもくるかもしれないと、戦々恐々となり、こんどはみずから“自主規制”するようになります。たとえば──。
 ──中部地方のテレビ局では、ホームドラマ中の冗談「おれはサンタだ」「じゃおれは四ンタだ」の部分をカット。
 ──東京のテレビ局では、川におぼれそうになった少女が犬にしがみつくマンガのシーン、犬が「人殺し、いや犬殺し」とさけぶセリフをカット。
 ──各民放局で、「五木の子守唄」の二番、「おどまかんじんかんじん」が“差別語”とされるとして二番を歌わず三番へ。
 ──こどもたちの人気を集めた「みなしごハッチ」、“川向こうの部落の巻”は、関西テレビでは全面カットで欠番。
 ──ラジオ大阪の東芝日曜劇場で、有名な古典落語「らくだ」は未解放部落が舞台になっているとして一部修正。
 あげればきりがないほど、たくさんの例があります。
このように文学から民謡、古典落語、娯楽番組にまで“自主規制”がどんどんひろげられていったとき、日本の文化はどうなるでしょうか。  (つづく)
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