047 名作の山 修験と夏スキーが共存 月山(森敦『月山』)
出典:河北新報 昭和51年7月18日(日)
  予もいずれの年よりか、片雲の風にさそわれて、漂泊の思いやまず……
 芭蕉が曽良を従えて「おくのほそ道」の旅に出たのは元禄二年(一六八九年)三月二十七日。白川の関を越え、松島、平泉を経て出羽の国へ入り、最上川を下り、羽黒山から月山に至ったのはその年六月初めである。
   八日、月山にのぼる。木綿(ゆう)しめ身に引きかけ、宝冠に頭を包み、強力と言う
  ものに導びかれて、雲霧山気の中に氷雪を踏んでのぼる事八里、さらに日月行道
  の雲関に入るかとあやしまれ、息絶え身こごえて頂上に至れば日没して月顕(あら
  わ)る。笹(ささ)を舗(し)き、篠(しの)を枕として、臥して明くるを待つ。日出て雲
  消ゆれば 湯殿に下る。……
 月山は千三百余年前、第三十二代崇峻天皇の第三皇子・蜂子皇子によって開山された修験の霊場出羽三山(月山、湯殿山、羽黒山)の主峰である。標高千九百八十メートル。日本では珍しいアスピーテ型の死火山。この型の特徴であるなだらかな半円型の山容をもつ。
  湯殿山銭ふむ道の泪(なみだ)かな              曽良
 参詣(けい)人たちは白装束に身を包み、一足ごとに青銭を投げで祈った。“銭ふむ道”は時として“銭なだれ”を起こし、山にこだました。
   ながく庄内平野を転々としながらも、わたしはその裏ともいうべき肘折(ひじおり)
  の渓谷にわけ入るまで、月山がなぜ月の山と呼ばれるかを知りませんでした。その
  ときは、折からの豪雪で、危く行き倒れになるところを助けられ、からくも目ざす渓谷
  に辿(たど)りついたのですが、彼方に白く輝くまどかな山があり、この世ならぬ月の
  出を目(ま)のあたりにしたようで、かえってこれがあの月山だとは気さえつかずにい
  たのです。……
   その月山は、遥かな庄内平野の北限に、富士に似た山裾(すそ)を海に曳(ひ)く
  鳥海山(ちょうかいざん)と対峙(じ)して、右に朝日連峰を覗(のぞ)かせながら金 
  峰山(きんぽうざん)を侍(はべ)らせ、左に鳥海山へと延びる山々を連互させて、臥
  した牛の背のように悠揚として空に曳くながい稜線から、雪崩(なだ)れるごとく山
  腹を強く平野へと落としている。すなわち、月山は月山と呼ばれるゆえんを知ろうと
  する者にはその本然(ほんねん)の姿を見せず、本然の姿を見ようとする者には月
  山と呼ばれるゆえんを語ろうとしないのです。月山が、古来、死者の行くあの世の山
  とされていたのも、死こそはわたしたちにとってまさにあるべき唯一のものでありなが
  ら、そのいかなるものかを覗(うかが)わせようとせず、ひとたび覗えば語ることを許さ
  ぬ、死のたくらみめいたものを感じさせるためかもしれません。…….
 しかし今では、この“あの世の山”も、夏スキーを楽しむ若者たちでにぎわっている。磐梯朝日国立公園の最北、日本海岸から四十キロしか離れていない月山は、冬にシベリア大陸からの季節風をまともに受けるため日本でも有数の豪雪地帯となり、夏になっても解けない万年雪となっているのだ。
 このため月山には去年一年で、県外から十七万四千人、県内から五万九千人のスキーヤーが訪れた。緯度が北寄りの地勢もあって二千メートル以下の山なのに中部山岳三千メートル級の高山植物に覆われているため、自然を求める登山者も増え昔ながらの修験者を含め県外から四十三万三千人、県内から三十万四千人が登っている。
 雲の峰幾つ崩(くずれ)て月の山              芭蕉
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