048 続 一冊の旅 森敦 月山@
出典:河北新報 昭和52年8月16日(火)
 いや、全く、くたびれた。山登りらしい山登りの経験もなく、いきなり、出羽三山の主峰、標高一九八〇メートルの月山に登るのは、年齢的にも、いささか無理だったかも知れない。山を下りて数日は、疲労感が体中を満たし、思考の集中力が鈍化して、正直なところ、ただ寝そべっていた。やはり、霊場は、信心で登るものであるようだ。
 芭蕉が、門人の曽良と、月山に登ったのは、「おくのほそ道」によると、元禄二年(一六八九)の夏(陽暦七月)だった。
 「八日、月山にのぼる。木綿(ゆふ)しめ身に引かけ、宝冠に頭を包(つつみ)、強力と云(いふ)ものに導かれて、雲霧山気の中に氷雪を踏(ふん)でのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入(いる)かとあやしまれ、息絶(たえ)身こごえて頂上に臻(いた)れば日没(ぼっし)て月顕(あらは)る。笹を鋪(しき)、篠(しの)を枕として、臥(ふし)て明(あく)るを待(まつ)。日出て雲消(きゆ)れば湯殿に下る」
 以前は、この文章は、ちょっと誇大な表現ではなかろうか、と疑っていたが、いまは、初めて登る山道の苦しさは、この通りだ、と素直に信じることが出来る。当時の出羽三山参りは「木原三里、草原三里、石原三里」といわれた、難行苦行であったらしい。
 現在は、羽黒山口から月山八合目の弥陀が原までバスがかよい、芭蕉の時代と違って、うんと楽になっているが、私は、芭蕉と逆コースをとって、湯殿山口から月山に登った。急坂の難所は、こちらの方が多い。
 山岳信仰のメッカとして、月山、湯殿山、羽黒山の出羽三山は、よく知られている。中世の初めは、各地から数千人の山伏たちが集まった、という。その隆盛ぶりは、「吾妻鏡」や「義経記」などにも出てくる。しかし、修験道について、知識もくらく、あまり興味もない私が、月山にひかれたのは、まず、単純に、月山の名をもつ、その優しさであった。
 森敦の「月山」を読んだのは、芥川賞受賞作として、雑誌に掲載されたときである。印象に残る作品だったが、この作者の「幽玄の論理」が、私にはむずかしかった。最近になって、河出書房新社版で読みかえし、付録の小島信夫の「『月山』について」という解説に助けられて、ようやく、「月山」の幽玄の世界へ誘い出される思いがした。
 森敦の「月山」は、月山の山ふところ、雪深い七五三掛(しめかけ)の注連寺で、長いひと冬を過ごした作者が、庫裡(くり)の二階の広間の片すみに、祈祷簿をほごして和紙の蚊帳をつくり、吹雪と寒さを防ぎながら暮らし、「天の夢」を見た話である。
 小島信夫の解説によると、「この作品は、一年間のベスト何とか、五年間の、十年間のベスト何とかいうようなわくから外れた、いわば画期的なところをもったものだ」。
 私は、幽玄の世界を求め、別世界にあこがれ入った「月山」を、たずねたくなった。
 月山は、古来、死者の行く、あの世の山とされているそうだ。私が、月山に登ったのは、山の神には申しわけないが、信心からではない。だが、頂近く、胸突きの岩道を、一歩一歩登りつめながら、みずからのあえぎの息吹を、おのれのものならず聞いたのは、事実である。
 下山して、私は、家人の訃(ふ)を知ることになる。
新月 通正記者

森敦(もり・あつし)
四十九年一月、六十二歳で芥川賞を受賞、オールド新人、文学老年などといわれた。長崎生まれ。旧制一高を中退、横光利一らと交友を結び、十九歳の処女作「酩酊船」が毎日新聞に連載された。その後、光学、土木関係の仕事をしたり、古寺に長くこもるなどして、沈黙を守ったが、この「月山」で、いきなり文壇に躍り出た。
 早朝の国電山手線をぐるぐる回りながら執筆する話は有名。
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