049 続 一冊の旅 森敦 月山A
出典:河北新報 昭和52年8月18日(木)
 羽越本線の列車は、新潟、山形の県境を越えた。月山登りの案内を引き受けてくれた、若い友人の山男氏と、鶴岡の駅で、おちあうことになっている。
 車窓の左手に、海が見え隠れする。切り立つ岩の岸。きょうの波は、おだやかであった。沖を行く船は、どこか、孤独な航跡のかげをひいている。いつ見ても、美しい日本海の景色である。
 長年の間に、北海道から九州に至るまで、日本海沿いを走る列車は、ほとんど乗ったはずだが、海岸線のおもむきは、いずこも、似かよっているように思う。そして、私の日本海のイメージは、能登半島の先の舳倉島で、はるかシベリアから寄せてくる三角波をながめた感情に、凝集されたままだ。
 鶴岡は、庄内平野の南端に開けた城下町である。古くから、出羽三山への玄関口でもあった。鶴岡から見ると、月山は横になった牛の背のような形だ。別名臥牛山というのも、なるほど、とうなずかれる。朝、約束の時間に、山男氏と行きあって、駅前から、バスで大網へ向かう。
 森敦「月山」の『私』も、鶴岡からバスに乗っている。「落合の鉄橋を渡るころからうとうとし、ときにイタヤの葉の繁みから深い渓流を見たような気がするものの、つい眠って大網に着いたのも知らずにいたのです」
 小島信夫は、「『月山』について」の中で書く。「……『私』は夢の世界に入るかのように月山の中へバスに乗って行く。バスに? と人はいうかもしれない。違いますね、バスに乗って行くことこそ大切だ、と作者はいうだろう。俗世間の運び屋だからだ」と。
 がら空きのバスは、赤川をさかのぼって、国道112号を走る。米どころ、庄内平野は、山に向かって、次第にせばまり、田んぼの枚数が、目に見えて減ってゆく。落合を過ぎると、月山と朝日連峰の間を縫う、渓谷の道となる。
 約一時間で大網の停留所に着いた。「月山」の『私』のように、角材の大きな道しるべをたよりに、七五三掛へ歩き出す。だらだら坂を三、四十分。山田で草むしりをする年より二、三人に会っただけで、物音一つ聞こえてこない。ときどき、ウグイスが静寂を破る。やがて、二、三十軒の集落が見えた。
 注連寺は、谷間の村に入って、すぐ右手の高みにあった。荒れ果てた破れ寺を想像していたが、建物こそ古びているものの、大きな、しっかりした寺である。ジーパンをはいた若い男が、本堂の掃除をしていた。「お参りですか」と、向こうから声をかけてきて、案内してくれる。聞けば、この寺で修行する行者だ、という。
 本堂の厨子(ずし)の中に、鉄門海上人の即身仏が置かれている。何年間かの木食(もくじき)の荒行の末に、生きながら仏になった姿、と説明にある。ミイラであった。
 庫裡(くり)の二階の広間を見せてもらった。「月山」の『私』が、吹雪の季節を過ごした場所である。床の間に、「……天の夢を見たり」という、森敦の筆になる軸が掛けてある。『私』が、花見(酒盛り)の席で村人とかわす、夢幻的な会話がよみがえってきた。
 
 
 「お前さま、和紙の蚊帳つくっているというんでろ。どげなもんだかや」
 「どうって、まァ繭の中にいるようなものかな」
 ………
 「だども、カイコは天の虫いうての。……あれでやがて白い羽が生えるのは、繭の中で天の夢を見とるさけだと言う者もあるもんだけ」
 ……
新月 通正記者
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