066 男たちの台所 キャベツいためと卵焼き
出典:信濃毎日・高知・中国・山陽新聞 昭和58年5月13日
 森さんは、実は、料理を作るのは四十年ぶりだという。数年前、ある雑誌のカメラマンの前で「エプロンをつけてポーズだけをした」以外は。料理ができないのでは決してない。その腕前のほどは後ほど明らかになる─。
 ともあれ、芥川賞受賞作品「月山」のイメージから描かれたというパステル画を飾った応接間から台所へ出てきて、フライパンを握ることなんて、娘さんの富子さんもびっくリ、の珍事なのだ。
 森さんの作る料理は、昔からキャベツいため、卵焼き、牛肉薄切りのいためものと決まっている。
 十年前、六十一歳の“新人作家”として芥川賞を受けるまでの「十年働いて十年放浪する」森さんの人生はすでに神話化されている。サハリンで原住民と共同生活、尾鷲ダムでの肉体労働、月山でのめい想の日々。放浪期の料理道具はいつでもフライパンと飯ごう、缶切リ、それに素焼きの七輪だった。これで何でも間に合う─というより、ほかの料理は作る必要がなかった、とか。
 「村の人は、僕がキャベツと卵しか食べてないようだ、と思うらしい。見かねて、何か作って持って来る、そのうち、面倒だからと作りに来てくれるようになる」
 いわば、村の善意の母性本能(?)に守られて、森さんの料理のレパートリーはとうとう増えずじまいだったようだ。
 しかし、青春時代、かの名料理人・故檀一雄氏の親友であった森さんが、料理に一言あるのは当然といっていいだろう。
 「僕は本当は口がおごっているのかもしれない。実際にはものぐさだからフライパン料理しかやらないにしても」。
 森さんにとって、料理は何より味でなければならない。「“目で食べる”なんて間違いですよ。最近のでかでかとした料理が一番困る。(テーブルの上に)大きな舟を置いてマグロ、イカ、ウニ、タイと何でも一緒に盛りつけて、菊の花なんかで飾ったり。それが北から南まで皆同じ。刺し身を花びらの形に切って菊で飾るのが日本美じゃない。デコレーションでなく、どこでも、その土地の本当にうまいものを一つだけ出してくれればいい」。
 量ではない、質ということ。そういえば、「月山」の中で、雪に閉ざされた注連寺のじさまが、みそ汁の実のダイコンを千本に切ったりイチョウに切ったりして味覚に工夫をするくだりが印象的だった
 「料理のひけつはぜいたくだ」とも。キャベツ一つにしても、外の葉でなく中の葉を選ぶ。本当においしいところを少しだけ。あとはセンスで料理する、というわけだ。
【森式キャベツいためと卵焼き】
 材料(一人前)=キャベツの葉三〜四枚、卵二個、サラダ油大さじ四〜五杯、酢、しょうゆ各適量。
 作り方=@キャベツは洗わない。洗う場合は、よくふいて、水気を取っておく。手でシンや固いところをちぎり取る。包丁は使わないAフライパンにたっぷリ(大さじ三〜四杯)の油を入れ、煙が出るまで熱するBキャベツを一枚ずついためる。表をさっと焼く感じで火を通したら、すぐ裏返して同様に。一枚ずついためるのがコツCフライパンに油を足して、卵二個を割り込む。目玉焼きにならないように黄身をはしでほぐす。しかし、かき回していり卵にしてもいけないD卵の表面が固まりかけたころ合いを見計らって、皿に引き上げるEキャベツ、卵とも、酢としょうゆでいただく。(所要時間七分)
 【味の寸評】ういういしい新キャベツの甘みとしゃきっとした歯触りに、さっぱりと酢としょうゆがよく合う。素材のあるがままの良さを引き出す極意は、絶妙な火加減と間の取り方、であるらしい。
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