074 殺し文句の研究 近藤 富枝
出典:読売新聞夕刊 昭和59年12月8日(土)
 一九三五年ころ、作家の森敦氏は奈良に流寓(りゅうぐう)していたが、旅先へ矢田津世子からの手紙が届いた。
 「お風呂(ふろ)に入っていますか。下着はよくかえていますか」
 などと書いてある。森は二十三歳、新聞に「酩酊船」を連載した新進だった。五歳年上の津世子は当時美貌(びぼう)で鳴るモダン派の女流作家である。
 「あたしはいまお風呂から上がったところで、髪をすいたところです」
 というのもある。若い女が男にこうした文面を書くのは、相手へ関心があり、一種の媚態(びたい)ととるのが、昭和初めごろの感覚である。
 矢田津世子には言いよる男性がひきも切らなかったが、それは彼女がエキゾティックでミステリアスな容貌だったためばかりではなかった。相手の琴線にふれる、こうした言葉の華を持つ女人だったからだといえるだろう。
 しかし森氏は百通も津世子の手紙を受けとりながら、ついに恋仲とはならなかった。それはそのころ津世子の有力な恋人候補者に、作家の坂口安吾がいたことと無関係ではあるまい。                                      (作家)
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