110 文学のさと 森敦 かての花
   西浦弥彦村
   幽玄の世界息づく杉林
出典:新潟日報 平成元年11月20日(月)

題字 新井 満
(新潟市出身・作家)
 弥彦山のなだらかな曲線が晩秋の澄んだ青空に映える。越後一の宮・弥彦神社は日本一の菊まつり、七五三などでにぎわいをみせていた。
 「人里離れた静かな所へ」と森敦が弥彦に住みついたのは昭和三十六年春。それからほぼ一年間、神社に程近い四軒長屋の「扇屋アパート」で暘夫人とともに暮らした。
 土木作業員、電源開発、南氷洋や北洋での船員生活など「十年働いて、十年遊ぶ」という放浪時代のころだ。弥彦では毎日のように夫人と連れ立って神社境内や杉林の中を散策する森の姿が見られた。
 六千鉢の菊の香が漂う神社境内。本殿周辺から弥彦山一帯にわたる二百四十ヘクタールの広大な山林は社有地で、その中心は杉林。「神聖さ尊厳さという面からも神社には杉が似合う」と熊野季文宮司は話す。
 その杉林を背景に「折れ枝、枯れ枝は伊夜比古さまが風をつかわして、下された天の賜…」「杉の折れ枝、枯れ枝を山と背負って、奥から降りて来る老婆があった」と森独特の時空を超えた死生観が描かれていく。
 当時、アパートの隣室で交流があった板垣好江さん(五○)=園芸店経営=は「オカッパ頭に、いつもカーキ色の作業衣を着て、どこへ行くにも奥さんと一緒。穏やかに説得するように話す姿が目に浮かびます」と懐かしむ。
 森が住んでいたころの弥彦は年間観光客約五十万人の時代。それが上越新幹線、関越自動車道の全通という高速自代の流れに乗って今では「三百万観光」を目指すところまで膨れ上がった。
 杉林に囲まれていたアパート周辺も、表通りは近代的なホテル、温泉旅館、土産品店が立ち並ぶ。そこに当時をしのぶ面影は残っていないが、森がよく散策した裏通りの杉林は昔のまま。その森閑とした中に踏み入ると、苔(こけ)むした小石が落ち葉に埋まるように、点々と墓石が見える。杉林に立ち込めた朝もやに木もれ日が漏れて、幽玄の世界に誘いこまれる。

 もり・あつし 1912年(明治45年)長崎市生まれ。小説家。旧制一高中退。横光利−に師事。「酩酊船」でデビューを飾った後、長い沈黙を破って発表した「月山」で第70回芥川賞受賞。「鳥海山」「われ逝くもののごとく」などで特異な死生観を描いた。1989年(平成元年)7月没。

作品 「弥彦山は広い蒲原平野を、日本海からまもる自然の牆壁(しょうへき)をなす…」で始まる「かての花」の原型は弥彦時代の生活を描いた昭和43年発表の「弥彦にて」。その後「かての花」と改題されて月山のことが加筆されたことにより「テーマが凝縮され、月山への道を求める氏の姿が一段と明確に伝わってくる」(解説・井上謙)といわれるように、現世とも幽界ともさだかでない幻想的な森文学の世界へと広がっていった。文春文庫では7編の短中編を収めた「月山・鳥海山」に所収。

森が住んでいた6畳と4畳半の小ぢんまりした扇屋アパートは今も健在。昭和36年秋の第2室戸台風襲来のときは、「月賦で買ったばかりの白黒テレビに毛布を掛けて、戸締まりもせずに、ふろ場で夫人と−緒に震えている森さんに、ぴっ<りしました」と板垣好江さん。板垣さん夫妻の応援で板戸をクギ打ちし、暴風雨の一夜を明かしたという

 森が散策した杉林。「おい茂った下草の間に、ほとんどただのグリ石に命(みこと)だ姫だと刻み込まれた墓石が、無数にころがっている」という小説の世界そのままに、落ち葉の中に風化したものや苔むした墨がどこまでも続く。ほとんど弥彦神社の氏子のもので、1300年前から代々土葬されてきた通称「大石原」の墓場。小説の枯れ杉を背負った老婆がヒタヒタと迫りくる気配すら感じられた。
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