(文 森富子)
Part 3
*使用した糊の変遷 *表札「森寓」 *将棋盤 *筆 *万年筆
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*使用した糊の変遷
 世に埋もれていた時代は、原稿執筆に神経質で一字でも違うと、新しい原稿用紙に書き直していた。非能率で不経済な執筆方法だ。そこで、鋏と糊を使って効率的な書き方を伝授した。生かせる部分を鋏で切って新しい原稿用紙に貼りつける方法だ。それが高じて、一行ずつ貼った原稿もある。裏返して見ると、糊代が重なっていたり糊が糊代からはみ出していたりして、苦心の跡が歴然としている。
 なぜ糊の変遷があったか。初め糊と鋏の方法を伝授したとき、「大和糊は、皺が寄るからいやだ」と受け入れなかった。
 貼りつけた紙に皺が寄らないセメダインを提供したら、たいそう気に入って使い出した。貼る部分の面積に応じてセメダインをチューブから出すのだが、多く出してしまったり、糊代からはみ出してしまったりしたセメダインを指先でぬぐい取っては卓袱台の下にこすった。卓袱台を裏返すと貼りついたセメダインがべたべたとついている。それから、速乾性の糊なのでキャップをしないでおくと、口が固まってしまって使用不能となる。キャップをする手間を惜しむため、どんなに使用不能の無駄を出したかしれない。
 写真を貼るのに使うペーパーボンドなら、セメダインのような欠点がない。はみ出せば、ペーパーボンドに添付してあるゴム状のもので拭い取れば簡単に取れてしまう。ところがペーパーボンドを使い出したところ、ゴム状のもので拭い取らずにはみだしたままいした。書き急ぐ気持ちが強く、拭い取るような手間をかける余裕がなかったのだろう。速乾性がないため、10年以上過ぎた今も、はみ出したペーパーボンドに重ねた原稿が貼りついて、はがすのに難渋している。

*表札「森寓」
 ヒノキ材で、古びてはいるが、表札として使用された形跡がない。筆跡も森敦のそれと違う。なぜか、放浪したとき持ち歩いたダンボールに入っていた。このダンボールには、『酩酊船』の新聞切り抜き、『森敦全集 第1巻』所収の発表誌切り抜き、分厚なノート三冊、関係者からの書簡などが収めてあった。そんな宝箱に入っていた、異体のしれない表札であるだけに捨てられなかった。

*将棋盤
 「将棋を教えてやろう」と言ったので、折り畳み式の小さな将棋セットを買ってきた。「勝負しよう」ということになった。森敦は、飛車で攻めるのが好きで、一直線に進むのみで、すぐさま相手の王様を取ってしまう。何度やっても私の負け。悔しくて将棋の入門書を求めて、書いてあることを実践した。守りを固める戦法でいくと勝つようになった。相手に勝たれると面白くないらしく、大き目の将棋セットを用意しても、私の将棋の誘いにのらなくなった。

*筆
 左から六本目の筆は、根元までおろして使う〈水筆〉で、七五三掛の注連寺境内に建つ月山文学碑「すべての吹きの 寄するところ これ月山なり」を揮毫するときに使った。1981年(昭和56)、月山文学碑建立を機に第1回月山祭が開催され、1989年(平成元)に森敦死去する前年まで月山祭に出席したが、そのたびに、たくさんの色紙にさまざまな文言を揮毫した。
 森敦の父親は書家で、「下手な字を書く者のほうが、毛筆の修業をすると、味わいのある字を書くようになる」と言っていたという。森敦は、ガリ版を切っていたせいか、力瘤を入れた雄渾な字を書いた。原稿やメモなども、力瘤の入った筆圧の強い字を書いたため、晩年は書痙に悩まされた。

*万年筆
 筆圧が強いため、何本も万年筆のペン先を折っていたらしい。「文章は、万年筆で書かねばならぬ」などと言うと、妻から「買ってもすぐペン先を折ってしまうから、ボールペンで書けばいい」と言われていた。私は内心、太くて丈夫なペン先の万年筆があるはずだ、そう思って探し出した万年筆が下の二本だ。どんなに力瘤を入れて書いても、ペン先はしなやかに反るが折れなかった。この太くて丈夫な万年筆で書いた作品は、未発表「大山にて(仮題)」の原稿である。
 芥川賞受賞後、万年筆をたくさん頂戴したが使わなかった。書痙の兆候が出たため、ボールペンから細字サインペンに切り替えた。世に出てからの原稿はすべて細字サインペンで執筆した。書痙がひどくなり、サインペンの先のすべりが悪くなると新品を使うので、三十本入りの箱をたくさん買い込んであった。
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