(文 森富子)
Part 6
*小形洗濯バサミ *「やよい荘」の看板 *表札(市谷田町) *ぬいぐるみ *魔法瓶
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*小形洗濯バサミ
 ガリ版で刷った紙を、天井に張り巡らした紐にぶら下げるために、洗濯バサミを使った。大量にあったが、その一部が残っている。
 小島信夫さんも書いている。〈森さんは「実現」というガリ版誌を刷って、……訪ねると部屋の中に張った糸に刷った紙が洗濯バサミではさんで吊るしてあった。〉(『小島信夫全集1』)

*「やよい荘」(調布市布田)の看板 〔注・森敦文庫に展示〕
 昭和46年(1971)4月に、同じ市内の杉荘から移る。ほぼ6年間住む。四畳半の和室、三畳の板の間に流しとガス台、トイレは共同、風呂なし。やよい荘で書いた『月山』が第70回芥川賞を受賞し、取材や原稿依頼に来たジャーナリストに面白がられた。書斎兼寝室兼応接室で、昼間は原稿執筆に当てられ、打ち合わせや取材などは夜間に酒を飲みながら終電過ぎまで談論風発であった。
〈ぼくは調布の薄汚いアパートに住んでいた。見事な竹藪に囲まれていたからで、竹を愛する者は賢人だなどと言って得意になっていた。しかし、毎日送られて来る雑誌、書籍の類だけでも相当な量に達する。アパートは二階建てで、上下四つずつ、都合八室あったが、みな1DKである。その一つを借りていたぐらいでは、日ならずして足の踏み場もなくなる。致し方ないので隣室も借りた。そのまた隣室も借りれば、下の部屋も借りるというわけで、アパートの部屋の大半はぼくが借りてしまった。〉(『森敦全集』第八巻「緑陰権」)
 事実は一部屋を借りたのが始まりで、最終的には三部屋を借りた。「小説は創るのだからいいけど、エッセイに、嘘を書くとはうなずけない」と言ったところ、森敦は「文章には、インパクトがなければならぬ」と応えた。

*表札(市谷田町)
 昭和52年(1977)1月、調布市のやよい荘から東京都新宿区に転居したときにつけた表札。地名から市谷田町の家と言ったり、最寄り駅名から飯田橋の家と言ったりした。高台にあるため眺望がよく、冬は暖かで、気にいって、最期まで住んだ。「ぼくの住んだところは、高いところが多かった」と言っていた。東大寺近くの瑜伽山の山荘(24歳)、山形県の庄内の注連寺(39歳)、東大久保のアパート(41歳)は、みな高台にあって、小説やエッセイに書いた。

*ぬいぐるみ
 左の犬のぬいぐるみは、古稀の祝い品。大竹洋子さんが、犬好きの森敦のために和光で選んで持参した。友人知人がレストラン・ドゥブルNに集い「森の花祭――森敦先生の古稀をお祝いする会」を開いた。応接間のソファーに置いたぬいぐるみは、犬好きの客人に抱かれ、愛撫されていた。白に近いベージュであったが、貫禄がついて灰色になった。

*魔法瓶
 真ん中の赤い格子縞のアラジンの魔法瓶が森敦愛用で、左の魔法瓶は客が来たときに使った。
頻繁に紅茶を飲むため、日に何度も笛吹きやかんでお湯を沸かして魔法瓶に注いで使った。電気ポットが出始めたころ、安全で便利な電気ポットに切り替えようと説得しても応じず、アラジンの魔法瓶に固執して使い続けた。
 右は、ティーパックを入れた容器。紅茶中毒者で、絶対にトワイニングのオレンジペコでなければならなかった。紅茶とアスピリンで執筆した作家だ。一日に二十袋くらいを飲むので、業務用のダンボールに入ったティーパックを買いこんで書斎に置いた。
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