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(文 森富子) |
Part 8 |
*大皿 *茶釜 *赤いリボン *携帯ラジオ *カフスボタン 遺品覚書一覧へ戻る |
*大皿 |
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ある日、「今夜は、サツマイモの天ぷらをつくる」と言ったら、森敦から「大皿いっぱいにつくってほしい」と命じられた。魚や野菜のおかずも並べても口にせず、サツマイモの天ぷらで腹を満たした。翌日もサツマイモの天ぷらを独占して食べた。好物を食べ続ける性癖があって、相手するほうが閉口したものだ。ポテトチップスを連日食べていたときがあって、ポリポリと噛む音を聞いただけでゾッとして、顔を背けていた。 |
*茶釜 |
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妻・暘(よう)の遺品。東京に出てきてから、茶を立てるということはなかった。茶釜以外の茶道具は残っていない。 |
*赤いリボン |
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昭和62(1987)七十五歳、『われ逝くもののごとく』で第40回野間文芸賞の受賞式のとき、花束の贈呈を受け、自宅に持ち帰って花瓶に生けた。花は枯れたが、「贈 講談社」と墨書された赤いリボンが残った。応接室の隅に飾って眺めていた。 |
*携帯ラジオ |
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昭和40年(1965)、山形県の庄内から上京した当時、新聞もテレビもなく、妻の暘はラジオで野球を楽しみ、野球に関して詳しかった。 電気製品はソニーでなければならなかった。理由を訊いたところ、「ソニーの株で食わせてもらったからね」と言った。庄内放浪のときも株の指南をしたと言い、近代印刷に勤め始めても遅配欠配、株の空売買でしのいだと言い、意外な一面を持っていた。これから書くと決意したとき、端株をもらってほしいと言われた。株運用の頭から小説を考える頭にしたいと言っていた。 |
*カフスボタン |
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昭和49年(1974)6月21日、毎日新聞の鳥井特派員とともに金鍾泌首相と会見した。渡韓の困難なときに、「サンデー毎日」の依頼ということで会見したのだ。大歓迎のもてなしを受け、帰国に際しては、金鍾秘首相名入のカフスボタンなどの贈り物をもらった。 タートルネックのラフな服装では失礼に当たるというので、森敦はワイシャツにネクタイの世話を受けての会見であったが、首相がラフな服装であったので、雑談で話題にして笑い合ったという。 タートルネックは黒、白、臙脂を持っていたが、白を好んだ。 |
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