(文 森富子)
Part 11
*四国八十八ヵ所巡礼の一式 *コケシ *愛用の電話 *愛用の温風電気ストーブ
*小型テレビ
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*四国八十八ヵ所巡礼の一式
 装束、鈴のついた杖、菅笠の三種。昭和60年(1985)2月20日から、「森敦マンダラ紀行」(NHK同年4月1日、2日、3日に放映)の撮影のときに使用。
 菅笠は、書斎の机において、『マンダラ紀行』(『森敦全集2』367〜369ページ)、『十二夜』(『森敦全集2』517〜521ページ)に書き記した。菅笠に墨書された詩に心ひかれて、眺めては思索していた。『マンダラ紀行』には、次のように書いた。
 〈お遍路の菅笠にはこう書かれています。これは西国三十三ヵ所巡拝の菅笠にも書いてあるものですが、
 本来無東西 本来東西無し
 何処有南北 何処にか南北あらむ
 迷故三界城 迷ふが故に三界城
 悟故十万空 悟るが故に十万空
 この詩は果たして弘法大師空海のお書きになったものかどうか分かりません。大変深い意味を持っていると思われますが、それを解釈するには、他に適当な方がいられるでしょう。ただこの詩は菅笠の中心から四方に向けて書いてある。どこから始めても意味が通じるばかりか、逆に読んでも意味が通じるのです。
 悟故十万空 悟るが故に十万空
 迷故三界城 迷ふが故に三界城
 何処有南北 何処にか南北有らむ
 本来無東西 本来東西無し
 この菅笠は須弥山、それをめぐる昼としての胎蔵界、夜としての金剛界を表し(以下略)〉

*コケシ
 応接間の棚に並ぶコケシは、存在感があった。来訪者の一人から「一つだけ飾って、あとは物置に入れておくといい」と言われたことがある。森敦はエッセイ「こけしの里」に書いている。
 〈コケシはその地方地方の子供たちがそうであるように、それぞれに相似た顔を持つことによって、その地方地方の特色を形づくっている。土橋慶三さんがコケシを鳴子系、肘折系、遠刈田系、土湯系、蔵王系、弥治郎系、作並系、木地山系、津軽系、南部系に分類されるのもこのためであろう。(中略)コケシはたんに愛玩の具たるにとどまらず、もてあそぶその子もまたあやかって、強く健康に育てというおまもりとしての素朴な祈りも秘められているのではあるまいか。〉(『森敦全集7』)

*愛用の電話
 黒電話は、昭和46年(1971)調布市布田のやよい荘に住んだときから使い出し、昭和52年(1977)新宿区市谷田町に転居したときも持参して親電話にした。三つの部屋に灰色の電話を設置して、送受信を各部屋からできるようにした。
 昭和49年(1974)芥川賞受賞がきっかけで電話魔となった。長話のあげく、突然「じゃあね」で終わったという。昼のほとんどは仕事の依頼の電話、夜は友人からの電話で、自分で受話器を取らないと気がすまなかった。仕事が忙しくなると、文学談義の交遊も電話で行い、執筆に疲れると電話で雑談にふけり、知人友人が留守であっても夫人や子供たちとも雑談に興じた。最晩年は、小島信夫さんと定期便のように長話をするのが午前中の日課であった。
 電話への執着心と独占欲が強く、娘が使うと「どこへかけていた?」と問い詰めた。電話は恋人であり友であった。新聞を読まないのに情報通であったのも、電話を外界のパイプにしたからだろう。電話で話す合間に仕事をするというありさまで、月額10万余の電話料を払ったことがあった。
 電話のベルが頻繁に鳴り響いていた生活が、昭和56年(1981)69歳のとき、軽度の脳血栓で入院したことがきっかけで一変した。退院後、「今日も、電話一本もかからなかった」と肩を落とした。二週間ほどの入院中のテレビやラジオの出演をキャンセルしたため、新規の依頼がなくなった。キャンセルは娘が独断でやった。この機会に、書くことの仕事に集中してほしいという願いからである。慰めにと、会社から電話をかけた。帰宅すると同じ会話を交わした。「今日も電話一本なかった」「私のかけた電話があったでしょ」と。
 話す相手のない情況にあるとき、しばしば天野敬子さんの訪問を受け、「天野さんのために仕事をしたい」と言い出し、「群像」に『われ逝くもののごとく』を連載することになった。

*愛用の温風電気ストーブ
 冬の書斎の必需品。石油ストーブでオーバーや上着を焦がすなど無頓着で、火傷や失火を心配して、温風電気ストーブを置いた。新宿区市谷田町の家は、寒がりの森敦のためにセントラヒーティングにしたが、「暖房は石油ストーブだ」と言い張り、引越しにストーブを持参。住みだすと「暖かい家だ」と喜び、石油ストーブは忘れ去られた。

*小型テレビ
 左のやや大きめのソニー製テレビは、調布市布田のやよい荘で愛用し、二台あった。どこででも見たいというので、右の最小のテレビを求めた。テレビが大好きで、ニュースや歌番組や特集ものを好み、大事件の報道は何時間でも見た。晩酌しながら教育テレビの数学T・U、幾何などを見て、問題が出ると瞬時に答を出して楽しみ、得意がった。
 ソニー製品信奉者で、放浪中にソニーの株で生活ができからだという。日立のテレビを設置したら、毎晩、色が悪いと言われ続け、聞き流すにも限界がきたため身内に渡し、新たにソニーのテレビを設置したが、すぐ故障。ベーターのビデオデッキの登場時に設置したがすぐ故障、修理してもすぐ故障。テレビやビデオデッキの度々の故障にもかかわらず、ソニー製品を愛用し続けた。
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