100 森 敦著
  われもまた おくの細道
  芭蕉の世界を自らのものに
  「起承転結」の区分けに特色
間山 俊一(まやま・としかず氏=ジャーナリスト)
出典:週刊読書人 昭和63年11月14日
 松尾芭蕉の「おくのはそ道」は後世の人々に様々な影響を及ぼし、現代でも、その道をたどることにより、芭蕉を鑑賞し、自己の人生を省察するといった試みが絶えない。本書もまたそういう類いの本の一冊である。
 本書の構成を見ると、「おくのほそ道」を起承転結の四つに分けることが特徴となっている。起は旅立ちから遊行柳まで、承は白河の開から宮城野まで、転は壺の碑から象潟まで、結は越後路から大垣までという区分けをしている。この区分けには当然のことながら、著者の「おくのほそ道」解釈の基本が打ち出されているわけである。
 「命題を以って読者を密蔽しなければなりません」とし、そのために「構造をつくらねばなりません」といい、「構造をつくるには物と物、事と事を対応させねばなりません」、そして「組み立てられた構造も対応によって、奥へ奥へと組み立てられたものにならなければ、暗闇が流れたことにならず、生きた世界をなし得ない」とする著者の文学観がそういう区分けをしたものと推測することができる。
 それはさておき、有名な「序」の書き出しである「月日は百代の過客にして行かう年もまた旅人なり。……」を著者は、「月日は果てもなく過ぎて行く旅人のようなもので、去っては来、来たと思うと去る年もまた旅人である」という。森流の現代語釈がユニークであるのも特色といえる。こういう語釈文と著者の解釈が交互に入りまじり、旅をつづけていく形になっている。
 起の終りの部分、遊行柳での一句、
 田一枚植えて立ち去る柳かなについて、田一枚植えて立ち去ったのは芭蕉たちだという解釈や、田一枚植えたのは早乙女たちで、それを見て立ち去ったのは芭焦たちだという説もある。ところが森氏はどちらか知らないが、「その柳の精の老人が現われて舞い、舞いおわってただ柳だけが取り残されている」といった状景を思い浮べ、一株の柳を残してものみなが死んだりしていく。いわば流転だが、そこで「起」が終わるとする。そして白河の関、須賀川、安積山、信夫の里などを過ぎ、芭蕉は「軒に菖蒲を挿す日」に仙台へ入る。
そこで、
 あやめ草足に結ばん草鞋の緒と詠む。はなむけられた草鞋で再度旅立という心意気を感じて、そこで「承」は終る。「転」は松島、石の巻などを経て平泉に至る。覆堂をつくり風雪をしのいでいる光堂について
 五月雨の降りのこしてや光堂と詠む。「おくのほそ道」では光堂とて「しばらく」といって不易を信じてはいないことを指摘する。それが湯殿山に至り、「芭蕉もここに至って万物の流転に思いをいたさざるを得なく」なり「不易の旬を知らなければ本たちがたく、流行の句を学ばなければ風あらたまらず」の悟りをえたのだろうという。さらに「芭蕉の旅はこの不易流行を観念しようがためのものだった」と断言する。さらに象潟まで足をのばし「転」は終る。
 「結」は越後路だが、何も書かない日が九日問つづき、市振、金沢、山中ときて、山中で曽良が体調をくずし、先発してしまう。大垣では
 蛤のふたみにわかれ行く秋ぞと詠み、これは、旅立ちの「行く春や鳥啼き魚の目に泪」と見事に対応して、「おくのほそ道」を芭蕉は完結させているという。起承転結のさまざまな場面での対応、変換を解釈し、実に巧みな組立てであることを全篇で語っている。しかし、最終的に会者定離ということがあり、「芭蕉はわたしたちをその生きた大きな世界に残したまま、みずからは更に別離して行こうとする」と結論づける。「そうでなければ、人生は別離であるという命題も命題でなくなってしまう」とまでいう。
 芭蕉の世界を自らのものとした著者の器に評者もひきこまれてしまった。
 ★もり・あつし氏=作家。旧制一高中退。著書に「月山」「鳥海山」「文壇意外史」「私説聊斎志異」「われ逝くもののごとく」「一即一切一切即一」など。一九一二(明治45)年生。
 
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