103 文芸時評
   光失わぬ高齢作家
   死見すえて描く「生の影」
   森 敦氏「吹きの夜への想い」(抜粋)
真継 伸彦(文芸評論家)
出典:読売新聞 夕刊 昭和63年12月23日(金)
 文芸雑誌の新年号は、短編小説の特集となるのが恒例である。言うなれば現役作家の顔見世である。それが、今年は去年ほど粒が揃っていなかった。理由の一つは、ご存じのように、去年も今年も、大勢の作家が、森敦氏の言葉を用いれば「逝ぎていった」からである。
眼を惹く70歳過ぎ
 なかで私の眼を惹いたのは、七十を過ぎた作家のものが多かった。たとえば森氏の「吹きの夜への想い」(「群像」)の次のような冒頭の一文。
 「加茂は海に迫る高館山の尾根に抱かれた漁港である。かつての繁栄を面影にして、荒廃に任せて眠っている。わたしはそれが好ましく、たまたま空いていたのを幸い、とある二階の座敷を借りた。魚は新鮮で、売りに来る浜のあば(女)たちは明るい。他人を笑わすようなことを言い、自分も笑っている。
 『兄さんはひとりだか』
 そう訊くから、
 『ひとりだ』
 と、答えると、
 『だば、淋しいの。おらが可愛がってくれっか』
 これである。まったく屈託がない」
 過ぎし放浪時代の一情景を語るこの短編の、筋などはどうでもよい。杉浦明平「松の木は枯れたか」(「海燕」)、堀田善衝「グラナダにて」(「すばる」)、野口富士男「坂の履歴」(「文学界」)といった作品の、どの細部にも、同様に頽齢にいたった作家たちの、それぞれに耳順うたる智慧がみなぎっているのである。
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