004 「群像」第三一七回 創作合評 一作品一 「月山」 森敦
    佐々木基一 上田三四二 秋山駿 1973.8.17 (抜粋)
出典:群像 第二十八巻 第十号 昭和48年10月1日
(右から秋山、上田、佐々木の三氏)
「月山」
秋山 最初に森敦さんの「月山」(季刊芸術第ニ十六号)。
 月山は標高千九百八十メートル、庄内平野を見おろす出羽三山の一つですが、この小説ではしきりに「死者の行くあの世の山」といわれています。
 この小説はわたしという主人公が、その月山や湯殿渓谷が形成する広大な山ふところ、いわば山形の辺地にあたる七五三掛の注連寺という大きな寺で、夏の終わりから翌年の新緑にかけてを過ごす、その滞在記、あるいは見聞記といったものです。
 この主人公は寺へ、いよいよこの世から忘れられ、どこにも行きようもなくここに来たという心境でやってきたわけですが、彼の目の前に、その寺のじさまの生活、あるいは冬になれば雪でバスも通わぬ閉鎖的な部落の行事が展開します。
 ちょっと時代離れのした物語の内容や部落の光景で、村には密造酒をつくっているための薄暗いあやしい雰囲気があるとすれば、物語の細部には、行き倒れの「やっこ」をミイラにしてしまう話とか、お寺の念仏という無礼講の夜、ふと知り合った若い女が主人公を誘うといった夢のようにあやしい場面も出てきます。
 この物語を随所で切って、節目をつけるようにあらわれてくるのが月山の紅葉、「吹き」と呼ばれる吹雪や、村の四季の花、カメ虫や牝牛の生態などを描く自然描写で、その腰の強い文体が、前にいったあやしい雰囲気を破る、生き生きとした光景を与えています。
 この自然の記述とともに、わたしの人生観照といっていい心の内容、どこといって行く当てのない男が、遠方の死を見て、ときには簿ら笑い、ときにはシーンとする、その心理の起伏があらわれる仕組みになっています。
佐々木 要領よくまとめられましたね。
上田 私はこれを、たいへんいい仕事を見せてもらったというか、非常に手間ひまかけた、持ち重りのする民芸品というような感じがして、読んだんです。
 初め、合評のはなしがでる前に、ずっと読みまして、そのとき非常にいい文章だと思って読んだんですけれども、じゃそれですっかり降参したかというと、必ずしもそうではなかった。ともかく、初めの部分が非常にいいと思ったのです。どういいかというと、ここにはいまいわれたように、月山の死の山と、それから鳥海山の生の山というものを対比しながら、死の山のほうへ魅かれていくあやしい雰囲気があるんだけれども、その雰囲気が雰囲気だけじゃなくて、地形的な、写実的なものが初めのほうに非常に強いと思うのです。そういう描写の的確さというものが初めのほうには非常にあって、ぼくはそれがとてもいいと思ったのです。
 ところがいよいよ主人公が注連寺へ行き、秋ごろまではいいのですが、冬になってほんとうの話がはじまり、人物が動き出すというころから、何かちょっと問題があるんじゃないかと思うのです。その問題というのは、お話を聞いた上で、あとで申し上げます。
佐々木 ひさしぶりに歯ごたえのあるうまい食べ物を食べたような気がしました。民芸品といわれたけれども、そういう感じで、白然描写が非常に的確で、それから日常の何げない生活、つまり人のいない山の中の寺で、そこの寺の守りをしているじいさんと二人で暮らすという動きのない生活ですけれども、その日常のこまごましたできごとが非常にうまく積み重ねられていて、たいへんリアリティーを出しているという気がしました。
 それと、自然描写がやはり単なる客観的な描写というのじゃなくて、生と死の象徴みたいになっている点、これはやはり年をとって、人生というものを相当見きわめた人の作品だという気がしました。生とか死というものもよくみつめた人、そういう年齢に達した
人の作品だという感じがしました。
 それで、何げないエピソードとして語られるもののほうが、逆にこの作品の中では生きていて、上田さんもおっしゃったけれども、人物が動き始めて主人公と後家さん、源助とのからみ合いになってくると、主人公と何かからまりそうでいてフッと消えてしまう、そういう弱さがあります。そういえばギョッとするようなシーンも出てきます。例えば、後家さんが黒いモンペをはいたダミ声の男にぶんなぐられているさまを、家の外から立ち聞きするところ、ああいうところはやはりちょっとショッキングなシーンなんですね。しかし、それはその瞬間だけで終って、あとにまで響いてくるというところまでは至ってない。難をいえばそういうことがあるけれども、やはり、最近では非常にいい作品だと思いました。
秋山 この作品の長所、美点となるところは、佐々木さん、上田さんのおっしゃったとおりだと思います。だからいい作品だと思ったから、もう文芸時評のほうに書いてしまったわけです。ですからいい作品だということは大前提として、きょうは、ひっかかるところをいいますと、やはりぼくはこの主人公が何かあいまいに見えるのです。どうしても、彼が何をしてどう生きている人かという、まるで小説を読むときの初歩のような、小学生みたいな興味でみると、それがわからない。この人間がよくわからないものだから、小説の細部になると、若い後家さんとのからみや何かでも、もう一つわかってこないわけなんです。同時に、ほんとうはこの作品の背後を流れているのは、この主人公の死というものに対する一種のメンタリティーにあると思うのですが、それが一体どういう形のものなのかというのが、もう一つはっきりわからなかったのです。
 ちょっと佐々木さんにつまらないことを申し上げてはいけないけれども、佐々木さんはぼくがチラッと読んだ「ウィーンだより・6」のあるところで、敗戦のちょっとあとぐらいに、バルカン半島の山奥の片いなかで、ひっそり余生を送りたい、だれにも知られないで、死んでしまいたいというようなあこがれを持っていたということをお書きになっていたわけですけれども、またそういう気持ちというのは、何かある年齢の日本人がわりと多く持っているようですけれども、それに似てるのですかね、この主人公の感じは。
佐々木 主人公の年齢が書いてないからわからないけれども、ぼ<は戦争が終わったときは三十くらいですから、まだそう老齢じゃない。ただ私ごとをいって何だけれども、戦争中ぼくはやはりこの主人公のような心境になったことはあります。そして山の中に一人こもって冬越しをして、病気をしたりしまして、熱を出し、それでもただ一人で寝ていたというようなことがあり、そういう意味で何かこれは非常によくわかる気がするのです、実に日本的なのかもしれないけれども。
秋山 ぼくなんかチャンバラ小説が好きなんですが、剣の達人がわりにこういう心境になって、山奥へひっそりと行ってしまうというのがあるけれども。
佐々木 これはやはり日本人あるいは日本文学の一つの大きな特色かもしれないけれども、死の相のもとにものをながめるという場合に、非常に鋭く透明にものが見えてくるということですね。これは大岡氏の「俘虜記」もそうですし、志賀さんの作品ももちろんそうだし、そういう傾向はいまだに大きく日本文学の中を流れているんじゃないか。
秋山 山奥へ行って人に知られずひっそり死にたいというのは、ぜいた<なことなんじゃないですかね。
佐々木 まあそうでしょうね、非常にぜいたくな死に方。
上田 大岡さんの場合の死というのは、向こうからやってきたような、無理やり追いやられた死みたいなところがありますね。この人の死というのは、死に対する一種のあこがれみたいなものであって、現世離脱をロマンチックということばで呼べば、そのロマンチックな感情が非常に強いと思うのです。
 そして主人公はおびき寄せられるみたいにして、月山の山ふところに入っていって、山ふところから見ると、生の山である鳥海が見えないわけです。鳥海が見えないということは、生が全く隠れてしまって、死のふところの中で、しかもまわりから隔離された冬の季節の中で過去帳でつくった土俗的な紙の蚊帳で一冬を送る。そしてそこで天の夢を見るというのは、やはり非常にロマンチックな心情が強いのじゃないか。その上に、土俗的なものとか、神秘的なものとか、一種の怪奇性とかがまじって、それがぼくにはちよっと強過ぎるのです。それが幾らかなじめなかった原因かもしれない。ほかに技術的な問題もちょっとあるのですけれども。
佐々木 おそらく、現代の高度成長下の日本がこの人にとってはやはりあまり……。
上田 賛成できない、ついていけないというところがある。
佐々木 そういうことがあると思うのです。
秋山 それはだからよく理解できる感じなんですけれども、この主人公はあえてなぜそんな生活をする必要があったのかということは、やはりちょっとわからないのです。ということは、この小説の光景があまりに現代離れし過ぎているわけなんです。むろん小説は浮世離れしたほうがいいわけだけれども、それがちょっと解放感を与えないというのは、やはりわたしとして書かれている主人公が、意外に人間臭くて、現に確かにそこに生きていて、われわれの中の一人であるというようななまぐささを持っているのです。ぼくはやっぱりそれを感じるのです。
 そうすると、じゃここにいる主人公というのは、われわれと同じような現代を生きる人間の一人である。それが山形県の秘境に行って暮らしている。しかしそう思うと、こんどは逆に、そこにあらわれて、目の前に展開される村の生活がちょっとあまりに現代離れし過ぎているな。この現代離れというのは、わざとつくってあるような感じがしないでもないですね。
佐々木 これは時代としては、観光バスなんかが走っていますから、現代でしょうね。
上田 そういう現代だからこそ、現代離れしたものが、衝撃力を持っているとはいえるのでしょうね。
佐々木 ただしかし、こういう山形の湯殿山とか羽黒山は、いま写真なんかでもブームになっていて、ミイラの村なんて写真をよく見ます。一種の民俗学でしょう。そういう土俗趣味というか、民俗学的な現代の嗜好というか、そういうブームに乗っかって書かれていないようです。つまり土俗的なものを強調するとか、民俗学的におもしろそうなものを掘り出して描くとか、そういうことはほとんどない。わりと淡々と書かれている。
 それからミイラの話なんかも、行き倒れのヤッコの臓物を抜いて煙でいぶして作るとかなかなかおもしろい話が出てきて、作者のきびしい現実眼を感じさせる。
 だからそれはそういう意味では現代の空気に非常に触れているものだし、それから村の人々の生活でも、単にロマンチックに山奥の生活にあこがれて、それを描くというのではなくて、やはりばあさんが醜ければ醜い。それから村の連中が密造酒をつくっていて、税務署を警戒するとか、農民のエゴイズムみたいなものも、みんな書いてある。これはぼくは逆におもしろかった。あまり民俗学的なものを押しつけられるのはいやですからね。
上田 非常に土俗的だけれども、それは土俗というもの、民俗というものを特別に取り出したのではなくて、作者の気質みたいなものが本質的にそういうものに向いているという意味で、わざとらしさというものはないと思いました。
佐々木 つまりよく知っている。よそ者、都会の連中が研究に行くとか、そういうのではなくて、その中に生活して溶け込んで。
上田 溶け込もうとして溶け込み得ていると思うのです。
佐々木 だから作者は非常にそういう生活というものを血肉化しているというかな。
秋山 冒頭のところで「ながく、庄内平野を転々としながらも」とあるから、何かそういう生活の中にいたということが感じられるわけですけれども、ただしぼくはちょっとわからないのは、源助じいさんや、さかりのついたような牝牛の場面や何かは、村の生活の一風景であって、現在だと思うのですよ。
 だがもう一方の場面、寺のじさまというのが出てくると、そのまわりを取りまいている雰囲気というのが何か合わないような気がするのです。なぜかというと、たとえばここは冬の間でなければバスは通っているところなんです。やはり医者だってあるんだろうと思うのです。そうすると小説では、雪になってしまうと、富山の薬しかないからなんていわれるわけですね。それはおかしいと思うんだな。
 それからたばこが買いにくいことや何かでも、ぼくはお寺の場所がはっきりわからないですけれども、バスの停留所のほうには、農協の店や何かあるわけですね。だからそういう細部が小説では、少し神秘なる月山の死の光景に合わして、寺というものを舞台にして、ちょっと変にアクセントがつき過ぎているという気がするんですね。
上田 それはぼくも同感であれだけれども、ちょっと弁護するみたいな言い方でいえば、つまり秋山さんのいう主人公の立場がわからないというのは、ぼくも大体はそうですけれども、しいて解釈すれば、ここに簿笑いということばが出てくる。あれが一つのインデックスになるんじゃないかと思うのです。というのは、ここには現世に対する怨念のようなもの、現実に背を向けるというような気持ちが非常に強くて、そこからこのように現代離れした世界へわざとというか、何かおびき寄せられるようにして入っていくというふうに、現世に対する一種の怨念──表立っては出ていませんけれども、背景にはやっぱりそういうものがあると思います。ちょっとどろどろしたようなものが。
佐々木 怨念に触れているものがあるね。
上田 それがミィラとかやっことか、ああいうものにかなりつながっていく。「薄笑い」ということばは何か大事なようですね。しょっちゅう出て<る。
佐々木 ぼくはこれを読んでいきながら、初めは、あッ、これは小説になるのかなどうなのかなと思った。主人公がだれにも忘れられてしまったというふうな説明もサラッと書いてあるだけで、それにはどういういきさつがあるかという、いわゆる小説的な設定はまったくないわけですね。だから一種の心境小説みたいな形でいくのかなと思った。それにしては枚数が長いから、これはどういうことになるのかと心配していたら、案外しまいまで読ませたね。
上田 ドラマはあまりないんですよね。女と何か事が起りそうになっても、そのままで終ってしまう。そういう葛藤というものがあまりなくて、初めから、これは逃げるぞという気がするわけだ。あの女とのかかわり合いでも、ふとんの中へ入ってきても、これはそれ以上は進まないなという気がして、読んでいくとやっぱりそのとおりになる。
 それと同じことが、女が「菊の精」じゃないかというような捉え方にも出てくる。そこらが甘いなという感じがする。気分でいくところがありますね。だから、人間くさい葛藤みたいな形で、ドラマとなって展開するというような形にはならなくて、わりあい平板に流れているんだけれども、作者の中に非常にあくの強い一つの意識みたいなものがあって、それで読ませるのですね。
佐々木 そうですね。やっぱり人生を見きわめたというふうなところが底の方にあるのかもしれませんね。
秋山 ぼくは意地悪く思うと、見きわめたんだと思いたいというのが、この主人公の願いなんだろうと思うのですね。
 いま上田さんがこの主人公が逃げるとおっしゃったけれども、確かに急所で逃げる。なぜ逃げるかというと、この主人公の正体を明らかにしたくないから逃げるんじゃないか、ぼくはそう読めてしまう。そういう読み方があまりいいとは思わないから、いつもは隠すわけですが、もの分りのわるい読者になってみれば、そう考えられる。葛藤があって、そこで何か自分の急所を見せてしまえば、この主人公の正体は明らかになるのです。だからそれで逃げるんだろうと思うのです。作者があいまいにしておきたいんじゃないかと思って。じゃ小説というのはそういうものでいいのかとつまらぬことを考えるわけです。
佐々木 つまり主人公にとって、冬の山にこもるということがどれだけの切実さを持っているのか。つまり全身全霊を打ち込んだある願望を果たすための行為であるのか、それと作者は半身しか投げこんでいないのか。こういう雪の中に閉じこもってそのままあの世に行ってしまえば幸福かもしれないというような、憧憬みたいなものがあって、そういう半身だけで書いているのかもしれない。そういうところは私も何ともいえません。さっきいった作者は非常に人生を見きわめている人じゃないかということと矛盾するような感じなんですけれども、しかしぼくは、やっぱりこれだけ書けるとすれば、相当人生を見きわめた人だという気もするし。
秋山 そういう気はしますね。だからこの主人公が一方で見きわめたというふうに感じさせるにもかかわらず、あるところでぼくにあいまいだと思わせるのは、この主人公がそうは書いてないけれども、執着の強い人だと思ったのです。
上田 非常にそういう傾向はありますね。
 佐々木さんが先ほどいわれた、半身くらいしか書いてないじゃないかということ、それはぼくも同感です。最後のところで、友人がやってきて救い出すというか、そこから抜け出させる。そして月山の死の山ふところから、今度は鳥海山の生のほうへ主人公を連れていくわけです。主人公は初めからそれを肯定しているというか、何かそういう生への脱出を予定しているようなところがある。月山の死のふところで、極楽浄土、天の夢を見続けてるのではなくて、それは冬の時期のことであって、時期がすめばまた現世へ帰ってくるという形で終わっておりますね。
佐々木 現世へ帰ってくると、何となく索漠とし、散文的になっておもしろくないわけだな。観光農園か何かやるんでしょう、いまはやりの。
上田 センターをつくる。
秋山 観光農園というかセンターね、ロープウェイや何かもつけるというような……。
佐々木 牧場やって、牛を飼って、ジンギスカンなべを食べさせたり、そういうのはすでに方々でやっています。
秋山 そうすると、この主人公は一ヵ所であるけれども、過去が出てくる。つまりダムや何かをつくったりするのに働いていた人だという、そうすると、観光農園など作れば、せっかく小説の描いたこの閉鎖的な、秘境的な世界はこわれるわけだと思うのだけれども、そういう友人と一緒にスッと出て行くというのは、何となくぼくは納得できないんだな。
 せっかくこういう小説を書いてくれたなら、日本はほんとうは芭蕉の昔から、「漂泊の思いやまず」という人生があるわけだから、そういうような人生の一こまを現代の場所に置いて書いてくれると、何かたいへんおもしろいような気がしたけれども、終りでいきなり建設のことを持ってくるんじゃ。(笑)
上田 この小説で一番中心になる山ふところの注連寺の生活と、村人との関係のところ、そこでぼくは技術的な問題でちょっと疑問に思うのは、全体に目がつみすぎていることです。目がつんでいるのはいいのですけれども、全体がちょっと重過ぎるというか、立ち上がってこないのですね。文章がべた一面のところがあって、もうちょっと緩急よろしきを得てほしいという気がするのです。
 小道具の出し方でも、カメ虫とかセロファン菊の出し方でも、非常にうまく、神経を細かく働かして使っている。ただ、その使い方があまりに神経質過ぎるというか、意識が行きわたり過ぎていて、かえって手の内が見えるところがある。もうちょっと表向き気楽に、サラッと出してほしい気がする。
佐々木 わりと計算し過ぎているところがありますね。
上田 計算し過ぎて息苦しい。芭蕉のいう「ざんぐりと荒びてつくる」心得がほしい。荒っぽくというんじゃないんだけれども、手のうちが見えるようなやり方でなくて、手のうちを見せないような一種の大胆さが必要なんじゃないかというふうに思いました。
秋山 何かところどころ、いまいった人間のあいまいさじゃなくて、小説の場面としてもちょっとわかりにくいところがあるな。
佐々木 源助という年寄りは死んだんですか、生きているのですか。
上田 ぼくは死んだんだと思いますがね。捜索隊をあしたになったら出すとかいうところで終っていますけれども。
佐々木 わざとあいまいにしたのかね。
上田 牝牛のところなんかでも、場面の設定自身がちよっと唐突な感じもあるし。
秋山 だからこういう一種のあいまいさみたいなのは、やはり日本の土俗的な光景を書くときには、あいまいさがあったほうが、小説の深さが出るわけですかね。
佐々木 そういうことは……。ぼくはむしろ、こういう土俗的な世界はディテールを正確無比に書けば書くほど逆に怪しい雰囲気が出てくると思う。
上田 藤枝静男さんの場合なんかは大胆に書きますね。太い筆で、荒書きのように書いていって、ぐっとつかむ、そういうふうな一種の省略の強さみたいなものを、中心の部分にほしいと思うのです。初めのところはいいのですよ、これだけ書ければ。ぼくはこんな文章は近ごろ読んだことがないと思った。
秋山 中心に少し密度が足りぬということは、初めの文章のいいとこうから入っていくと、小説の中央に欠けているものがあると思うのですよ。やはり月山が月の光に照らされて、雪があって銀いぶしの状態になる。それは死の光景ですよ。しかし、それは現実的には出てこないんじゃないですか。夢のように、ちょっと思うわけですよ。それをはっきり見るという心の状態がここにないんですよ。
上田 気分はそうなんだけれども、初めのところを読んでいると、地形的な関係とかが実に正確に書いてあって、いわゆる月山の死の山という一つのイデアみたいなものは背後に持ちながら、作者の表現というのは、初めのところはぼくは非常にリアルだと思うのですよ。そのリアルなものがあればこそ、夢幻的なものも生きてくるように思った。ところが、雪が降り出してからは、非常にがらが小さくなってしまう感じです。
秋山 その雪の月山がないんです、紅葉の月山はあるんですよ。だから焦点が一つぼくは欠けてくると思うのです。そして死を変なふうに象徴するものはカメ虫の死になってくるんですよ。月山に比べればカメ虫というのは小さいよ、これは。(笑)
上田 ちょっと話がズレるかもしれないけれども、その紅葉のところで、月山が初めふちのほうが薄赤くなっていて、夕焼けのような景色だったのが、実は紅葉していたんだというところ。これはうそではつくれないでしょう。実によく見ている。
秋山 ぼくは都会の子で、こういう紅葉なんというのはわからないけれども。(笑)
上田 夢幻的な気分がありながら、そこに正確にものを見ている。
佐々木 しかしいまひさしぶりにこういう文章を読むと、ぼくなんか何となく本物を食ったというような感じがするんですよ。それから考えてみると、日本文学ではこういうふうなテーマのものは必ずある程度成功することを約束されているのかもしれない。
 気のついたことの一つは、日本文学が普遍性を持つというか、文学として普遍的な広がりを持つという場合のテーマは、やはり死なんです。どうも死を前提とし、死を背景として書いたもの、そういう文学が日本では一番普遍性を持っている。それに反して生を指向する文学は、どうも普遍性に乏しい。(笑)
 それともう一つは、死と自然描写とをからませて書くこと。これが日本文学の場合、一番効果を発揮するんですね。やはりまだ東京のような都会を舞台にしては、これだけの強さの文学は生まれにくいんだよ。
秋山 ですがぼくは、ある点で反発するのです。この人のいう自然などというのは、ぼくは持ってないです。ぼくが見ている自然なんていうのは、線路のわきにある草や何かですよ。コンクリートの中で人は死んでいけばいいわけですから。(笑)
佐々木 いや、日本文学はやはりこういうふうに自然と死をからませると、ある程度の成功を約束されているといえる。生の理想とか生の充実とかいったものは、日本人と縁遠いのかもしれない。だからそれにかわる、生の文学や真の都会文学とかを現代の作家は見つけてこなければいけないと思います。
上田 死と自然といっても、この場合はちょっと土俗的なところが強過ぎるというか、神秘的なところが強過ぎる。あるいは鏡花的なものといってもいいかもしれませんけれども、幻想的なものがちょっと強いんじゃないか、日本人の感性からいえば、芭蕉なんかだと全くスタンダードだけれども、それに比べると、先ほどいったロマンチックな傾向がちょっと強い感じがありますね。
佐々木 それは夕日に映える紅葉の月山、ああいうふうなイメージというのは、これはもう川端康成氏なんかも書くし、日本文学の一つのパターンになっている、この作品はしかし、単にパターンで書いているというのではなくて、やはり作者は非常に自然をよく見、血肉化して書いている、そういうところがこの作品の強さだと思います。
上田 東北にはそういう土俗的な強いものが、日本の原形というか、ありますから、そういうものに連なっているんでしょうかね。
佐々木 日本の原形が東北にあるかな?
上田 原形といったらおかしいかな。縄文的といったらいいんでしょうかね、弥生文化に対する。そういうものの何かが、恐山なんかを中心にしたものにはある。
佐々木 日本の原形はむしろ九州のほうにあるかもしれない。(笑)
秋山 ですが、貧しいみじめな死に方というのは東北でしょう。
上田 地方性は地方性ですけれどもね。ローカルながら一つの感情の中心みたいなものが東北にある。ぼくは恐山なんかそうだと思う。だからこの場合は、「月山」という題なんか非常に端的だし、向こうのことばの山形弁か何かで語られていることも、やはり必然性がある。読みにくいけれども、標準語では表現できないものがあって、そういう意味ではローカルなものだけれども、そこに一つの日本の暗い感情の原基というか、そういうものがあって、それをつかまえようとしているとは思いますがね。
秋山 ぼくは方言で読みにくいところがあったな、よくわからないところも。前のところをひっくり返したり、方言の部分を普通のことばに直すと、何かなと思ってちょっとわずらわしかったですね、その点が。
佐々木 しかし秋山さんのような都会っ子が、こういうものを読んで感じる感じ方というのはおもしろいと思うのですけれどもね。
秋山 いやぼくは、ですからこの小説に対する公平な読者の観点じゃないですけれども、対立しようと思ったんです。
 ぼくはこの人の生き方というのは是認できないんだな。お金がなくてお寺に行って、お寺のじさまというのが食事をつくってくれるわけでしょう。そんな楽なところにのうのうといて、何か死生観みたいなことをいう、そういうのをぼくはおかしいと思う。気楽だからそういうことが考えられるわけですよ。
 村にいる一人一人の人間、源助さんみたいな人は、主人公みたいなことを考えられない。それは目の前の労働や何かがしばるからですよ。だからほんとうは主人公がやるんだったら、もう少しぼくにも通ずるような死に対する心理を描いてくれれば、ぼくもそれはありがたかったわけですよ。
 無理に疑問ばかりあげるようで悪いけれども、この小説をあいまいにしているもう一つは、こういう日本的な文章の特徴的なことだけれども、一番最初から最後まで、死に対する心理というのがどういうぐあいに深まっていくのかというのが、わからない。前の方にも一種の死に対する考えがある。うしろにもい一種の死に対する考えがある。そこにどういう脈絡と深くなっていく段階があるかというのがぼくは見えない。ひどいことをいうと、でたらめに並んでいる気がするんだな。
上田 むしろ、初めから、死に対するあこがれみたいな、この世のものでないというような意識がこの作者にはあって、それは深まるとか何とかじゃなくて、初めかち終わりまで統一してある。そして念仏の連中とか、やっことか、そういうもの全部がこの世のものでないという線で、自分の観念の中に全部を引き寄せている。そういう点では非常にはっきりしたものが出ているわけだけれども。
佐々木 いまの秋山さんの発言はたいへんおもしろいですよ。そういうふうに対立する人がいなげれば困っちゃう。この主人公はやはりだんな衆ですね。(笑)寺のじさまにめしをつくってもらって、自分は何もしないで食っているのですから、それはある意味では十九世紀的な高等遊民みたいなものでね。
秋山 ぼくがいいたいのは、この主人公という人の係累もわからない、家庭もあるのかどうかわからない。この山から出ていっても友だちがいるからいいけれど、どうやって生きていくのかがわからない。そうした場合に、死というものはもっとみじめに見えてくるはずです。こんな月山ながめて美しいといいながら死ねるわけはないんだ、人間は。(笑)
佐々木 徹底的にそういう批判やってください。それは必要ですよ。
秋山 ところが佐々木さんがさっきおっしゃったように、死に対する心理のこういう場面を描けば、日本の文学は成功するんですね。
佐々木 ある程度成功はします。
秋山 普遍性を持ち得るんですね。何度考え直してもぼくはよくわからないんだな。ぼくはもっとお金で単位の計量される、たとえば都会に一人で生きていたら、養老院の人はそういうものだと思うのです。これはもっと無味乾燥なものであるし、ぼくはいなかへ行って死にたいけれども、だれが、どこに入れてくれるのですか。
佐々木 無味乾燥な死でも、死を描けば日本の文学は同じです。これはこういう月山の自然のふところでの死という問題じゃなくて、都会の非常にみじめな死でもいい。
秋山 確かに日本人はそうですね。
佐々木 積極的に生のテーマを描くものはなかなか成功しない、普遍性を持ち得ないでしょう。どうもこれは、日本人のメンタリティーとか、日本の社会構造というものと、非常に深い関係があるという気がしますね。
秋山 ぼくもあるような気がしますね。
上田 話はかわるけれども「です調」で書かれていますね。これはどうですかね。「ある」というような形で書いているときもありますけれども。
秋山 文体でいえば、「です」とそうでないところのまざりは、一種の強い文章を形成していますが、むしろ方言の多用ということが、もう一つぼくを立ち止まらせますよ。それはこっちは地方の出身じゃないから、表現が正確なのかわからないですけれどもね。
 ぼくがなぜこんなことをいってきたかというと、ここに御詠歌みたいなことばが出てくるでしょう。
上田 御詠歌でしょうね、東国何番とかじゃないですか。
秋山 それを中心とする日本人にしみわたっている仏教的な死生観というのがあるんですね。それをこれだけ出したということは、ぼくは何かおもしろいと思ったんです。われわれはごく普通に、この主人公の心理状態に似たものを、どこかに持っているわけです。それが上田さんのおっしゃったとおり、冒頭のところやいろいろなところにあざやかに出ていると思ったものですから、ぼくも自分を知りたいという興味で、そういうところをつかんでいたわけです。だからもう少し深くやってくれと、どうしても思わざるを得なかったというところがあるのです。ぼくが都会のコンクリートの中で死んでいっても、あるいは心理自体はこの御詠歌を中心にするような日本人の心というのは持っているわけです。
上田 それはおもしろいな、大体そういうものからまるっきりふっ切れているような秋山さんが、(笑)それを取り上げて、そこでこれがまとまっているというのは、肯定するほうになるんじゃないかな。
佐々木 やはり御詠歌的なものは日本人の中にありますよ。
上田 それが結論みたいだ。
佐々木 それと、何回もいうように、山の描写なんか非常にはっきりつかんでいるし、こまかい小道具の使い方とか、描写が非常に的確だし、ああいうものをぼくはこのごろ考えているのですよ。つまり、こういう土俗的な世界に対して、都会を書く小説がどういうものを持って対抗するかという問題。私はたとえばカポーティーの「冷血」という小説をたいへん好きなんだけれども、あの中でハィウェイを走っていると、コカコーラのあきびんを集める少年と年寄りが出てくる。あれはもうほんとうにすぱらしいイメージだと思いました。つまり一番何の役にも立たないものを集めて、それでやっと食っているということ。これはやはり、こういう日本の土俗的な世界、カメ虫とかセロファン菊に対抗する一つの現代文明の中から生まれたイメージだという気がします。あのコカコーラのあきびんというのはとっても光っているわけですね。そういうディテールを都会の中で発見すること。そういうことをもうちょっとぼくは若い作家の人たちがやってほしいと思うのです。あいまいもこたる描写じゃなくて、そういうものを逆に的確に。これはポップアートとかアメリカの連中がやったことなんかも、非常に気持ちはよくわかるのです。
秋山 ぼくは都会を象徴するものは意外と犯罪だと思っていますから、せっせと新聞記事を切り抜いたりしますけれども。でも小説の問題になると、どうしても日本の文学は自然といなかと死が溶け合ったものを描くときに文章が強くてリアリティーがあるんですよ。でももうみんなこんなところに生きちゃいないですよ、なぜ都会を描いて、こういう文章の、日本だというところで響き合う深味とか、文体としての強さ、あざやかなイメージ、リアリティーというものができないのか。なぜなのかよくわからないのですよ。
上田 一つだけつけ加えると、主人公が月山を見て、これは以前に見たことがあるというふうに感ずるところがありますね。それが三回くらい出てくる。われわれもどうかして、いまと同じ経験が前にあったんじゃないかと思うことがありますね。
佐々木 デジャ・ヴユというやっですね。
上田 それがここに三つらいも出てくる、月山に関して。月山を、前世において見たんじゃないかというふうに。これも彼岸と此岸の照応で、かなり意識的に使っているんじゃないかと思います。
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