006 文芸時評 森敦氏の「月山」のこと
                       谷崎昭男(文芸評論家)
出典:浪曼 十一月号 昭和48年11月1日
 文芸時評というものへの反省は、もうずいぶんと云われてきた。近年でも、たとえば石川淳氏の発明があった。『朝日新聞』紙上でこころみられた周知の方法である。石川氏ならではのことと、氏の見識をそのときぼくらは語ったが、しかしながらそれが結局時評家の負担の軽減という問題に帰してしまうようなものなら、つまらないと石川淳氏以後についてぼくは思うのである。亀井勝一郎は文芸時評を書こうとしなかった。時評はついに徒労の業だと云う。ひとつの意見として、ぼくは傾聴する。ただ、それを徒労と観ずるなら、対象となるべき月々の作品を生む作家たちのいとなみも大方は徒労であり、そしてまた無用と、そのように云ってみなければおさまらなないほどに、すでに近代の批評の精神というものは厄介であった。
 時評などいっそひとおもいに廃止した方がいいと、ぼくもかんがえなかった訳ではない。とりあえず新聞からだけでも止したらどうか。雑誌の創作欄はきっと変化するだろう、とは四十年に近いむかしの説であった。しかし、そういう改まった議論をここにくりかえすまえに、おしなべて潔さといったものが今日の文芸時評から喪われているようにみえるのはなぜであろか。時評そのものの是非、その在り方に向けられた疑問とは別の、もうひとつのそれはぼくらの手近かな反省である。
 たとえば、かつての「地上」の作者に、あるいは「日月の上に」の高群逸枝の出現にたいしてあたえられた「天才」という評言について、ぼくは思う。「日本文壇の奇蹟」という萩原朔太郎の詩は云うもさらなりであるが、批評に際して、そうしたことばがまず使われることがなくなったのはどういう理由からであったか。世に容れられぬというような条件のむずかしさがさしあたってないとすれば、天才はいつか地を払い、今ではもうすっかりその跡を絶ったのであるか。
 かならずしもそういうことではなかった。思えば、恥しいことに生前の三島由紀夫にたいしてさえ、ぼくらは「天才」の語をためらって、せいぜい「鬼才」という名を呈していたにすぎなかったのである。しかもそれさえ、云ってみれば精一杯の気持であった。三島氏の自刃にあたって、それを「英雄の死」と呼んで潔かったのが、わずかにひとりの女流作家だけであったにしても、そのことをぼくは明日の文学のために秘かに慶賀したものであるが、しかしそうしたことばで死者を弔いつつも、「天才」「英雄」はすでに廃語だとその作家は文中に断っていた。廃語だというならわざわざ用いなくてもよかったのに、というのは、むろん意地悪い云いがかりである。「天才」「英雄」そうしたたぐいのことばを廃語と化さしめたもの、まさにそれこそが問われなければならないものであった。
 島田清次郎は天才の名に価するか否か、なるほどそれは論議するまでもないと云う。そういうことでは、高群逸枝の例もまた一般だったと云うことができる。だが、没後十年もすれば、そのひとの仕事の量など雲散霧消するというのは、云われるとおりであろう。三島由紀夫の仕事が今後どれだけの年月に堪えうるかはともかく、その比較のうちで大正の島田清次郎にして「天才」の称号を贈られたのならとは、ぼくらのごく自然の思いである。よく判断において誤ることがあろうとも、時評家が「天才」という語を用いる勇気をもたなくていいというはずはなかった。あるいは、現代人の裡にひそむ懐疑の淵はそれほどにも深いのだと、もっともらしい表情を作ってぼくもそんな説明を加えてみる。しかし、それは順序が逆というものではなかったか。じつのところは、それゆえに、深く湛えられた懐疑のゆえに、おそらく今日の日は「天才」「英雄」を必要とするのである。
 事情は、「傑作」というこのことばの場合も変りはなかったと思われる。どれほど卓れた作品を前にしても、「傑作」ということばを、今日の時評はつとめて回避しょうとする。もどかしくも、たかだか「力作」という程度である。緻密細心になった現代の批評は、そういう安易なことばの使用を許さない、とでも云うのであろうか。それならば、ただ一語「傑作」とだけのべて済ませる簡単な批評の方が、まだしもためになる。そうした粗さの裡にある一種おおらかなもの、それを文学において価値あるものとぼくは認めるのである。ことは、批評というジャンルが獲得したその独立性ということにもかかわるが、たとえば緻密さというようなものを得て、しかし代りに大事な何をうしなわねばならなかったか。その間の変化を、なにか批評の進歩というふうにでも誤解しなければ幸いである。
 いったい文学というものに進歩など、ぼくはさらにかんがえたこともない。「進歩的な文学」がかつて語られた。およそ文学に進歩的も反進歩的もなく、「反進歩的文学論」というのはひとつのレトリックだったが、そのように云われる場合の進歩とはまた異なった意味での進歩について、ぼくは云っているのである。秋成以来、あるいはさかのぼって論語以来としてもいい、この間小説がなんらかの進歩をとげたという確たるしるしはどこに探したらいいか、それを見付けるすべさえ知らない。文学に進歩を云いえない以上、批評の分野にかぎってそれがあるという訳もなかった。それほど使い古きれた語だとは云え、「傑作」という表親をもちいては悪いという道理はまったくないのである。またしても懐凝がそこで顔を出すというなら、ぼくはもう抗弁する気も起こらない。
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 実際「傑作」という語がふさわしい作品がものされないというのではけっしてないであろう。つい最近のことでもそれはあったではないかと、ここでそのひとつにあげるのは、森教氏の「月山」(『季刊芸術』二十六号)である。夏の始めからこの秋口にかけての暑い盛りに読んだ文章のなかで、感銘第一番のものであり、文字どおり近年の傑作とぼくは思った。読後すでに少からぬ日数を経過したいまも、そのように思う気持は一向に変らない。やや時期おくれの感はあっても、この時評を「月山」のことから始めることに、よろこびとともに、ぼくは似つかわしいものを、しきりに思うのである。小説らしい小説、といって、それはしかしこう描けば小説らしくなるだろうといった、そういういわば目論見のうえに成った作品という意味ではない。そうしたことをなんら企まないところで、「月山」百六十枚は小説であり、そうして傑作であった。
 森敦氏は、今日流行の作家ではない。少くとも戦後文学のなかでは、これまで格別にその名を云われることのなかったひとである。「月山」掲載に際しての、「森氏は菊池寛、横光利一に親愛された作家で、すでに異敬すべき作品をいくつも書いている経歴の持主ですが、ジャーナリズムの光に当たろうとせずに書き続けていられたようです。それも悪くはないが、よき読者を一人でも多く得たいという気持をもたれてはどうですか、と言って執筆をねがった」云々との古山高麗雄氏のことばは、近頃気持よくよんだ編集後記であったが、森敦氏そのひとにかんしては、天草生まれ、横光利一の高足というようなこと以外、ぼくの知るところも別段多くはないのである。
 ただ、この五年来のことを云えば、森氏の作品のいくつかに接する機会に、ぼくはたまたまめぐまれていた。合せて十篇にも足りないほどの、いずれも五十枚前後の長くはない小説である。昨年春に発表の「天上の眺め」というのには、京城の街を語ったなかに、朝鮮凧の作り方とそれのまた揚げ方を微細に図示する箇所があった。なにも判らないぼくは絵入りの小説ということにおどろいた始末だったが、他に「弥彦にて」「吹浦まで」、そうして「吹浦にて」と、ぼくがなかでも愛読したのは、思いあわせれば、どれもその舞台を今度の「月山」から遠くないところにもとめた作品である。
「月山」読了後、淡い昂奮の直ぐには醒めやらないまま、よみ比べるような心持ちで、ぼくはそれら古い作を再読した。愛着の度は以前に倍したというのは、これは他愛ない読者の心理というものであろうか。そうして、旧作の前にこれを置くとき、「月山」はやはり一箇の傑作だったと云うのは、森教氏の小説は、短篇に仕立てられるよりは、それ以上の、ある程度の長きを以てえがかれるにふさわしいとの謂である。その長さを要求するものはと云えば、ほかならぬ氏の文体がそれを要求するのであり、五十枚よりは、百六十枚という長さにおいて、森氏の小説は、一段と鮮明な世界を、よりたしかな世界を図示する。
「月山」までの歳月は、たとえば「弥彦にて」からは五年余である。かならずしも短いという時間ではなかったが、しかし作者のとげた変貌というようなものをそこにうかがうと云うには、すでに十分に練達しきったものが氏の筆にはあった。
 ただしかし、「月山」を、森敦氏は自ら発見しなければならなかったのである。弥彦、そうして吹浦、あるいは酒田と、旧作にあつかわれているのは日本海に直接するところであり、月山の周辺に在るが、その海岸線よりはいくらか内陸へはいったところに月山は位置する。「月山」の「わたし」は、鶴岡市からのバスに揺られて、広大なその山ふところに入って行くのであるが、ようやくにしてそこに至る。「月山」発見までの道程、それをいま五年というふうに慮ってみれば、たしかにそれは、短いとはけっして云えない時間である。月並みなことばで云えば、作家の孤独な歩みをそこに思いやって、なにかしら感激に似たものを、ぼくもまた覚えないわけにはいかなかった。
「ながく、庄内平野を転々としながらも、わたしはその裏ともいうべき、肘折の渓谷にわけ入るまで、月山がなぜ月の山と呼ばれるかを知りませんでした。そのときは折からの豪雪で、危く行き倒れになるところを助けられ、からくも目ざす渓谷に辿りついたのですが、彼方に白く輝くまどかな山があり、この世ならぬ月の出を目のあたりにしたようで、かえってこれがあの月山だとは、気さえつかずにいたのです。しかも、この渓谷がすでに月山であるのに、月山がなお彼方に月のように見えるのを、不思議に思ったばかりでありません。これからも月山は、渓谷の彼方につねにまどかな姿を見せ、いつとはなくまどかに拡がる雪のスロープに導くと言うのを、ほとんど夢心地で開いたのです。
 それというのも、庄内平野を見おろして、日本海の気流を受けて立つ月山からは、思いも及ばぬ姿だったからでしょう。その月山は、遙かな平野の北限に、富士山に似た山据を海に曳く鳥海山と対峙して、右に朝日連峰を覗かせながら金峰山を侍らせ、左に鳥海山へと延びる山々を連互させて、臥した牛の背のように、悠揚として空に引ぐながい稜線から、雪崩れるごとくその山腹を強く平野へと落としている。すなわち月山は月山と呼ばれるゆえんを知ろうとする者にはその本然の姿を見せず、本然の姿を見ようとする者には月山と呼ばれるゆえんを語ろうとしないのです。月山が、古来、死者の行くあの世の山とされていたのも、死こそはわたしたちにとってまさにあるべき唯一のものでありながら、そのいかなるものかを覗わせようとせず、ひとたび覗えば語ることを許さぬ、死のたくらみめいたものを感じさせるためかもしれません。」
「月山」の書き出しは、こんなふうである。一篇の匿す奥行きの深さというものを、すでにこの発端に濃厚に味わうのであるが、森氏のこの文に、たとえば批評における中村光夫氏との比較をかんがえるのも、意味のないことではなかった。すなわち、中村氏の例の「です口調」との類似を、ぼくらは一応ここに指摘することができるが、しかしこうした文章に、いわば至らなければならなかった森敦氏における事情は、中村氏の場合とはどこか決定的に相違しているようである。それは、森氏が小説家であり、他方中村氏のかくのが批評だからという、両者の立つ分野のちがいには、思うにかかわらない。そういう差異とは別の理由で、ふたつは明確に異なっているのである。
 中村氏の「です口調」にかんしては、以前古木春哉氏が「憂悶の佐藤春夫」という文のなかで説いたところに、ぼくは同感である。「中村光夫氏の文章に於ける丁寧体のよってくる所には、実に後進国日本の西欧に対する力負けの心的傾向に発している。その慇懃と無札は西欧文学に関する論理的尊敬と日本文芸に対する心理的軽蔑の結果とぃえる。中村氏の「佐藤春夫論」にふれての、これが古木氏の明快な意見であった。
「月山」の作者がこの一作に丹念に描きこんだのは、まことに後進国日本の、かなしいその原風景というべきものであり、湯殿山中の奥ふかいところ、七五三掛(しめかけ)の注連寺という大きな古寺にいつか歳月を過すようになった主人公の前に、それは展かれるのである。寒中に行き倒れの「やっこ」のワタ(腸)を抜き、それを燻いてミイラに作ったというのも、春三月の桃の節句の祝酒を陽気に酌む、おなじ村人たちであった。方言を効果的に混えているのは、云うまでもなく、この作品を成功にみちびいたひとつの因である。
「部落はむろんまだ雪ですが、樹はおどろくほど伸びていて、明るい林のようになっています。そちこちの雪を流れる渓流に渡した板を渡って、アラレを貰って歩く餓鬼の野郎ッ子たちが見える。おはぐろの入れ歯のばさまは喚(おら)んで声をかけるばかりか、家をみると、『雛見に来たァ』と、泣きそうな大声を上げてはいって行くのです。
 ひとを迎えて飲ましながら、自分も出はって飲みに行くので、たしかに見た顔だと思うと、たしかにどこかで飲ましてくれた家のだだが来て飲んでいる。すると、向こうももとからの知り合いのような気になるのか、連れ立って雛見に行こうと誘うのです。こうして、わたしはいつかおはぐろの入れ歯のばさまともはぐれてしまいました。そういえば、足もとも危うく、もういい加減酔っているようですから、どこかで酔いつぶれたのかも知れません。」
「月山」は、おそらくは「楢山節考」の世界と、その少からぬ部分を共有するというのが、一篇にたいするぼくのかんがえである。なにもぼくは、無稽なことを云っているのではない。なるほど、たとえば一方ははっきりと旅行者の眼を、他所者の眼を通して画かれた物語である。そのような相異はなおかぞえられるとしても、しかしこの作品のもつおもむきには「楢山節考」に通うところがあるとぼくはかんがえて、これが今日の小説のなかに占める位置をはかる一応の目安とするのである。月山は、「死者の行くあの世の山」だと云う。もとより、今度始めておしえられたのであるが、そうしてみれば、「楢山節考」の「楢山」が姨捨ての山、つまりは同じく死者の山にほかならなかったというこの符合にも、一箇の意味が語られてはいなかったか。
 さて「月山」によって、作者ははたしてなにを云いたかったか、なにごとを読者に訴えかけたかったかとは、ぼくにはどうでもいい設問だった。小説の問題は、なにを、ということより、どのように描写されたか、に尽きるとぼくも思うのである。後進国日本の原風景がえがかれていると、そんなことをぼくはしるした。たしかに、そういうものが描かれていない訳ではなかったが、しかし実際のところ、「月山」はなにひとつ語っていやしないのである。生きるということの断面、人生のとある相、そうしたものではなく、生きるということそのこと自体、「月山」は、困難にも、まことに困難にもそれをそのまま文字に写した小説であった。引用した、作品の書き出しの部分のなかで、月山が感じさせるという「死のたくらみめいたもの」を云う森敦氏は、冒頭また「月山」の題に添えて、「未だ生を知らず、焉ぞ死を知らん」との詞を置いている。森氏の、これが思想と云えば、そう云えるであろうか。だが、「月山」の主題はそこにあったと、すぐ結論を語りたがるとき、ぼくらは「月山」に小説を読んでいないのである。「未だ生を知らず、焉ぞ死を知らん」、これこそ生きるということそのものだったという意味で、「月山」はじつにこの詞の小説化だったからである。
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