014 森敦と深沢七郎の距離
   『楢山節考』は『月山』では破片か
   森 敦著  月山
   青山孝行
出典:図書新聞 昭和49年3月30日(土)
 深沢七郎様、あなたどうします。
 かつてあなたが「山と山とが連なって、どこまでも山ばかりである」(冒頭)と『楢山節考』で描出したものを、「その月山は、遥かな庄内平野の北限に、富士に似た山裾を海に曳く鳥海山と対峙して、右に朝日連峰を覗かせながら、金峰山を侍らせ、左に鳥海山へ延びる山々を連互させ、臥した牛の背のように悠揚として空に曳くながい稜線から、雪崩れるごとくその山腹を強く平野へと落としている」(河出書房新社版8頁)と設定した小説が現われたのです。「月山」という作品で、著者は森敦さんという大正二年生まれの青年です。翁とか老とか呼ばないのは本人がそれを嫌っているからです。いつもお若いあなたも、たしか大正三年生まれですから同じおとしごろですね。
 「月山」という作品は、「自らに沈黙と流浪の人生を課した不羈の魂が」(オビ)ということばにささえられて、「死こそは、わたしたちにとってまさにあるべき唯一のものでありながら……」(8頁)とか、「あやまたず生を見まもれば、おのずと死に至ることができる」(55頁)とかいう観念の点描で綴り込まれています。たしか、あなたもデビュー当時「人生を、生と死を、冷静にニヒルな目できびしく見つめながら」(オビ)とか、「深沢さんの見ているのは流転の世界だ(日沼倫太郎)とか、だいぶ騒がれましたね。
 「なあーんにも思想のない小説を書きたいなあ」(大江健三郎との対談「思想のない小説」論議)と、あなたはいっていましたが、森さんも、「僕は形而上的デカダニズムでありまして……(中略)……つまり、反思想的思想というようなものは強烈に持っていたわけです」などといっています。
 あなたが、「イエス様も好きだったが、仏教も好きだった」(「自伝ところどころ」)と書いたり、「深い意味での宗教的仏教的な小説であるような気がしてならない」(日沼倫太郎)といわれたように、彼もまた「……それが、だんだん禅に繋がってきたわけです。」といいます(小島信夫との対談)。
 あなたが、よく「ゴキブリ」を引用するように、彼もまた作中に「カメ虫」など登場させるのです。似てますね。よく似てます。
 が、「月山」という小説は、正体不明の「わたし」が「ひとつの天地ともいうべき広大なやまふところを」を、「八畳にも満たぬこの蚊帳の中」に発見するお話です。「うつらうつら」した「冬眠の夢」のような感触の中で……。まあ、いってみれば、「新古今」の世界を「花伝書」の論理で描いたようなものです。庄内平野だの、鳥海山だの、大鳥川だの、梵字川だの、大日坊だの、注連寺だのという具体的な物で空間の実(ジツ)をかためて、「行ってたんでろ」だの「食せるかの」だの、「あるもんだし」だのという方言で注意深く武装しながら、少しずつ、読者の目を、「冬眠」への方向にピンボケにして行く手法です。さすが、その手練手管は達者なもので、チョイト出の新人作家の及ぶところではありません。読者は、主人公の「わたし」といっしょに、バスから降りると、ずるずると「糞ずっこ」と「イトコ煮」と「地酒」の世界へのめり込んで行きます。そして、うつらうつらの冬眠の中に幽玄の論理を遊びながら、ちょっとばかり土俗のにおいをかぐのです。やがて春を迎えた主人公の「わたし」は、訪れた友人と村を出るのですが、読み終えた読者である私の方は、睡眠不足の朝のように、どうも爽快さがありません。なんだか、ちっともおもしろくないのです。それは名人芸の手品を見た後のような、おもしろくなさです。もう一度読みなおして見て気づきました。これは、マジックの手法を楽しむ作品なので、もともと存在に値する世界があるわけではないのです。密閉した小部屋の中の遊戯に過ぎなかったのです。
 それなのに、それなのに七郎さん、「『楢山節考』のような物語は、あれはあれで恐い。それにあれは傑作だろう。だが、『楢山節考』の物語は『月山』ではただの破片なのだ。」(小島信夫)ということになってしまっているのです。それでいいのでしょうか。ほんとうにそうなのでしょうか。
 深沢七郎様、あなたどうします。
 (3・10刊 B6二〇九頁・七八〇円・河出書房新社)
(筆者=演劇評論家)
 
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