029 完成への里程標か
   森 敦著 鳥海山
文芸評論家 川村二郎
出典:東京新聞 昭和49年6月17日(月)
 『月山』が芥川賞を受賞して後、各文芸誌に発表された短篇五篇を収めている。いずれもはじめ同人雑誌に載せた作品を改稿したものだという。したがって、改稿の結果どの程度面目を新たにしているかは、同人雑誌の方を見ないので何ともいえないが、本来の成立からすればみな『月山』以前の作と考えていいわけである。
 では、これらはすべて、作品の性質においても『月山』以前ということか。『月山』が一回的ともいうべき見事な完成を示しているとすれば(少なくともぼくはそう信じるが)、その完成へ接近する里程標のごときものとして、これらは読まれるべきなのか。たしかに、いずれも短篇である。規模が小さいだけ、作品の運動がその中心にむかって巻きこみ、凝集と展開を同時に成就したかのような空間をそこにひらいて見せる、といった趣が、それほどあざやかに見て取られるとはいえない。
 たしかにこれらは、中央の峯をかこむ幾つかの前山、峯につらなる丘陵であるかもしれない。だが、それにしても、作者によれば、月山の本然の姿はうかがいがたく、出羽三山といっても月山ただ一つの山にひとしいのと同様に、鳥海山も、近づいて見、またはるかに眺める時、どれがその全容なのか、正体なのか、容易に見定めることができないのである。
 あるいは隆起する中腹が、山頂のように見えることもある。山頂のように見える中腹とは、作者の言葉を借りれば、「もどき、だまし」、つまり実相に対する虚相にちがいない。しかしまた、この言葉が反復される巻頭の短篇「初真桑」では、月山は死の山、鳥海山は生の山といわれているのだが、生は死のもどき、死は生のもどき、とも語られている。もしそうなら、両者はいずれも虚相においてしか捉えられないという点で相ひとしく、交換可能だということになる。
 規模の大小、構成の精粗といった、いわば技術的な間題を越えて、森氏の小説にはすべてある一貫した気分が共通している。ぼくの指摘したいのはそのことである。気分といっても、ただ漠然とした靄のようなものではない。今述べたように、生も死も虚相であると眺めながら、まさしくそれが虚であると知ることを通じて、生と死をこめた世界全体の実を直観しようとする態度、その精神の態度が作品に与える基本的な色調のことである。
 ささやかな、これといって奇もない日常の情景を描いているかに見えて、いつの間にかその情景が、日常を離脱した、世界の奥の意味を秘めた場所の光景のように映じてくるのは、もっぱらこの色調のせいであり、そしてそのようにいえば、これらは、『月山』をも含めて、本質的に同一の作品である。したがってぼくとしては作の出来不出来をあげつらうつもりはない。強いていうなら、巻頭の「初真桑」と巻末の「天上の眺め」に最も気分の深められた、熱した表現が達成されているように思う、といっておきたい。
                    (河出書房新社・七八〇円)
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