032 文芸時評 ひそかで強い声の作品
   森 敦氏 「天沼」
川村 二郎
出典:読売新聞 昭和48年12月21日(金)
 改めていうまでもないことだが、月刊雑誌は実際に出る月より一月先のナンバーをつけて刊行されるのが通例である。ふだんはそのことを別に何とも思わないで見ているのだが、十二月は少し違う。新年号は、例年大家中堅が顔見世よろしくずらりと目次を埋めていて、見た目にいかにも華やかで、年のうちに春は来にけり、とでもいえばのどかでよいけれども、こういう欄を担当していると、自分だけ先に年を取ってしまったような気分になる。大体もう年を取りたくない年配である。
 個人的な話はともかく、世間にあれこれ不景気な噂(うわさ)が取り沙汰(ざた)される昨今、はやばやと迎えた「新年」の華やかさが、何がなし心もとない輝きに見えてくるのはぜひもない。
 しかし考えて見れば、文学とは世間の動きの中ではいつも心もとなくゆれているしかなかったものではないか。三十年前、戦争末期には、同時代の文学など無きにひとしかった。しかもその間文学の命脈が絶えていたわけでなかったことは、敗戦後のかずかずの成果が明らかに立証している。世間、あるいは社会、現実などと呼ばれるものの流れは、たしかに強大で包括的ではあるが、その流れに完全に包みこまれることを望まない人間の意志が存続するかぎり、この意志の一表現である文学が消滅することはありえない。
 しかつめらしい文学本質論をくりひろげるつもりはない。しかしまた、時代について、時代と文学の関係について、眉(まゆ)を上げ、肩を怒らせて警世の言を吐くつもりもない。警世や予言はそもそも文学の場にはそぐわない。見た目に華やかであろうとなかろうと、今ここにあるかずかずの作品から、流れのとどろきにかき消されない、ひそかでしかも強い声を聞き取ることができれば、ぼくとしては満足する。
 たとえばその声は森敦「天沼」(文芸)からきこえる。以前この欄で賛辞を送った「月山」の姉妹編ともいうべき小説で、同じく月山の山ふところの古寺に住む「わたし」が、吹雪の一日、村のじさまに誘われて、山の上の木小屋をめざして登る、その道筋の叙述とそこでかわされる会話だけが、物語の内容である。当然、前作にくらべて作品の空間はひろがりを欠いている。また、方言を小説に用いることが悪いとは思わないが、ここではじさまの話し言葉がいささか多きにすぎて、吹雪の山道をあえぎながら登るように、読み進む読者の足どりを難渋させかねない、という気がする。一口にいって、物語の道筋は変化に乏しく単調である。
 しかしこの単調さは、人生そのものが刻むリズムの単調さに通じている。じさまの話から、山村の貧困と悲惨が次第に明らかにされる。それはいわゆる土俗の残酷物語のたぐいに拡大されてもいいような要素を持っている。しかしそれが語られるのは、いつ終わるともない雪の山道、時に日ざしのもれることはあってもほの暗くかすんだ道の上であり、その道を、重い荷を背負って踏みしめるじさまの足どりは、きりのない反復のうちに、いつかこの世からあの世にまでさまよい出てしまうかのようである。最後に「わたし」は日暮れの山中でじさまに別れを告げる。《薄暗さの中にも感じられたあの雪の眩しさもいつか失われ、にわかに暗澹と暮れようとする気配がし、
 「じゃア、じさまはそれこそ暗くなってしまうじゃありませんか」
 わたしはそう訊きましたが、
 「おらだかや。もうあげだ吹きも吹かねえでろし」じさまはなにを思いだしたか含み笑いをし、「いまだば月夜ださけ、暗うなっても雪明りで、足もとぐれえは見えるもんだ」
 と、ふたたび会わずに終わりながら、ふとその言葉を思いださせる人のように言うのです。》
 この結びの言葉は美しい。人生の濃い味わいをたたえながら、いわば霊的に透明化されている。(以下省略)
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