052 森敦氏への手紙 浅田彰(京都大学人文科学研究所助手)
出典:森敦著『意味の変容』付録 昭和59年9月
 お元気でしょうか。
 森さんの『意味の変容』、あの素晴らしく深遠にしてユーモラスな『ツァラトゥストラ』のパロディが、いよいよ一冊の書物として刊行されると聞き、新たな興奮を覚えています。そういえば、ニーチェの本が出てからちょうど一世紀。絶妙のタイミングと言えるでしょう。
 この作品の素晴らしさは、森さんが生涯にわたってさまぎまな場所で積み重ねてこられた多種多様な体験のエッセンスが凝縮されているところにあると思います。けれども、そこは森さんのこと、真面目一徹に体験を積んだのでもなければ、それを「文学的」に昇華しつくしたつもりになっているのでもないことは、言うまでもありません。言ってみれば、森さんはどこにいるときでも他所から来た二重スパイだったのであり、どちらの側につくでもない不安定な姿勢を保ちながら、その姿勢だけが可能にする情報収集活動を続けてこられたのではないでしょうか。
 インテリジェンスという言葉が「知性」と同時に「諜報活動」を意味するように、そもそも知識人はそのような二重性を運命づけられている筈です。ところが、多くの人がそれを放棄して、いずれかの側にベッタリくっついてしまう。たとえば百パーセント現実主義になったり、百パーセント理想主義になったりするわけです。そのどちらもまったく観念論的なものにすぎないことは言うまでもありません。このとき人は、現実という虚構にへばりついて真面目になるか、理想と現実との距離をイロニーに託すか、いずれかをとるほかなく、どちらとも割り切れないところから生ずるものであるユーモアは失われてしまうのです。
 こうした場面で常に見出されるのは、ゲーデル風に言えば、真・偽、上位レベル・下位レベルの決定不能性をもちこたえることができず、決定的な形で割り切ろうとする性急さにほかなりません。これはメビウスの輪を平面上に押し付けて8の字形にしようとするようなもので、どこかに大変な無理が生ずることは目に見えています。これを転倒と呼び、倒錯と呼ぶのはそのためです。
 ほんとうに大切なことは、むしろ、決定不能性を大いなる肯定をもって受けいれること、決定不能性を逆手にとり、それをいっそう自由な境地への入口とすることであるように思われます。たとえば、プロのインテリジェンス・エージェントとして、百パーセントの善人や悪人を気取るのではなく二重スパイとしてのありかたを貫くこと。そうしたありかたが、コセコセした真面目さでも斜に構えたイロニーでもなく、実におおらかなユーモアにつながることを、ぼくは森さんの姿から教えられたように思います。
 ぼくたちもこのところゲーデルの問題を核として思考の糸を紡いできたわけですが、それもまた、自意識の問題への自閉ではなく、そのような開放につながるものでなければなりません。形式論理を突きつめることで決定不能性に至ること。あらっぽく言えば、1=1、0=0の体系を突きつめることで、1かと思うと0、0かと思うと1という「絶体絶命」の境地に自分を追い込むこと。そのことが、1と0、有と無に先立つ「空」に向かっての開口へとつながっていく。これがぼくたちの思考に開かれた唯一のチャンスだという気がしてならないのです。
 ところで、こうした数学的メタファーが完全に抽象的なものであるのに対して、森さんの作品の中では数学がとても具体的な形ででてくる。これがまた実に面白いのです。数学には、定理を中心とした理論体系的性格と、問題を中心とした思考実験的性格があり、前者は論理で人を縛るけれども、後者はむしろ人を自由にする、と考えてみます。ドゥルーズ=ガタリは、科学を「王道科学」(=「国家科学」)と「マイナー科学」に分けていますが、それによるなら、前者は数学の「王道科学」的側面、後者は数学の「マイナー科学」的側面、ということになるでしょう。この分類で言えば、森さんの数学には後者に近いところ、つまり思考実験的な側面があって、それがとても面白いのです。そこには、デザルグ、フェルマー、モンジュといった図形の実験者たち、ベルヌーイ、ド・モアヴル、オイラーといった数式の職人たちのムードと相通ずる何ものかが感じられます。こうした人々のはるか後、数学の大政治家ヒルベルトがすべてを包括する理論体系の確率を計画したとき、二重スパイ、ゲーデルがその不可能性を示し、数学を再びオープンなものへと解放した、と言えば、いささか出来すぎたストーリーということになるでしょうか。
 言うまでもなく、数学のそうした「問題」的・思考実験的な性格は、具体的な工学と深くかかわりあっています。まさしくここに森さんの独壇場がある。実際、望遠鏡を組み立てたり、ダムを作ったり、活字を組んだりする現場から、つまりは「マイナー科学」の宝庫から、森さんが途轍もなく深遠な認識をひょいと拾い上げてこられる手つきは、ほんとうに魅力的で、不思議なくらい感動させられてしまいます。
 ふりかえってみれば、世間で「文学」と称せられている領域は、三角関係だの何だのにネチネチとこだわり続けた結果、膿でいっぱいの閉域になっていると言わざるをえません。森さんの、いわば「マイナー数学的」「マイナー工学的」な視線(たとえば、三角関係を幾何学的にとらえ、第四項を導入するというような)は、そこへ風穴をあけるものであり、実に爽快な治癒効果を発揮するだろうと思います。
 また、ぼくのように文学と無縁な者にとっても、森さんが二重スパイとして、また「マイナー科学者」として歩んでこられた軌跡をユーモアたっぶりに語って下さることは、何よりの励ましです。そこには変幻自在な「処世術」の教えがあります──気取って言うなら、現在のぼくたちにいちばん欠けているものである、あの「エチカ」が。
 そう言えば、最初にニーチェの名をあげましたが、森さんの姿はむしろレンズ磨きを生業としつつ思考の建築術をきわめたスピノザのそれに近いように思われます。このオランダの哲学者のように、森さんも、硬直した死の「モラル」ではない、柔軟な生の「エチカ」を、つまりは「処世術」=「処生術」を、いつまでも語り続けて下さるよう願ってやみません。
 いっそうの御活躍を!
↑ページトップ
書評・文芸時評一覧へ戻る
「森敦資料館」に掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。