053 「天」の位置 中上健次(作家)
出典:森敦著『意味の変容』付録 昭和59年9月
 この『意味の変容』を読んで、同じように独得の抽象に貫かれたボルヘスの短篇集、たとえば 「不死の人」を含む『伝奇集』を想い浮かべた。両者とも強靭な老人によって創られた書物であるが、物語の排除の意志によって貫かれているのも似ている。森敦の『意味の変容』においては、物語の排除の意志が物語の位置措定という一点に向けられる戦術を採っている。
『意味の変容』の本文だけで充分難しいのに、さらにここでムツカシイ事を言う気はないが、私の言う物語の位置措定をテレビゲームに置きかえるなら、それまで地上で戦闘していたインベーダーゲームの上下左右の動きが、宇宙に向って飛び立つ最近の爆撃機の円環をつくる動きだという事である。
「未ダ生ヲ知ラズ。焉ゾ死ヲ知ラン」がインベーダーゲームの地上戦なら、「既ニ死ヲ知ラバ何ゾ生ヲ知ラザラン」が爆撃機の宇宙戦である。天が地であり、地が天であるなどというのは、テレビゲームの世界では日常の事だ。この『意味の変容』における太字で組んだ部分のほとんどは、テレビゲーム化されている。たとえば、
 
  <任意の一点を中心とし、任意の半径を以て円周を描く。そうすると、円周を境界として、全
  体概念は二つの領域に分かたれる。境界はこの二つの領域のいずれかに属さねばならぬ。この
  とき、境界がそれに属せざるところの領域を内部といい、境界がそれに属するところの領域を
  外部という。> 
 
 陣地取りや宝さがしゲームとして、これも実現されている。もちろんこう言ったからと言って、『意味の変容』が貶しめられるものではない。現代思想のほとんどは、テレビゲーム化されているのだから。それに思想がテレビゲーム化されるのは、すぐれて『意味の変容』の主題でもある。ゲームセンターに行くと十歳足らずの、昔なら青っ洟たらしてトンボ取りしか能のなかった子供が、何なくゲーデルもボードリヤールもベイトソンもこなしているのをみかける。
『意味の変容』一冊から、私が強烈な意味の変容として受け取るのは、従ってテレビケーム理論ではなく、森氏の想像力の働くところ、『月山』以来一貫してある「天」についての思想である。「死者の眼」の章にのっけに出てくる。
 
  <ここは謂わば壷中の天だからね。
  「壷中の天? 成程なア。まさに世界だ」
   世界? おなじことだが、ぼくらは全体概念を形づくっていると呼んでるんだよ。>
 
 「壷中の天」が世界であり、全体概念であるなら、むきだしの「天」は間断なく全体概念を浸透するもう一つの全体概念でもある。そのもう一つの全体概念への言及はなく、その代わりに、注意深い読者、いやテレビゲームに熱中するような感度のよい者だけに分かるように、集中で、宇宙、高みについてのサインが出される。サインの中に、光学兵器、望遠鏡とかレンズ、ダム、という光や距離に関するものも入れてよいかもしれない。そして蛇。不死の生物。メビウスの輪のねじれ。
 
  <だが、人に対して大いなる問いになろうとするイエスの試みも、ある人々の目にはゴルゴタ
  の安っぽい野外劇とも映ったであろう。事実、イエスを誹謗した祭司長や律法学者、長老たち
  は兵士らとともに、イエスもまたかくて死ぬにすぎないことを嘲笑したというが、彼等はどう
  して天の哄笑を聞かなかったのだろう。>
 
 「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」の章になって、数学、特に幾何学を尺度にして戦時中から敗戦
直後を捉え直してきた森氏は、一瞬「壺中の天」たる全体概念が破けるように「天」についての思い
を書きつける。
 
  <実現されていく空間はつねに境界より一次元高い。たとえば、一次元空間をなさしめる境界
  が0次元空間であり二次元空間をなさしめる境界が一次元空間であり、三次元空間をなさしめ
  る境界が二次元空間であるように。しからば、一次元空間にすぎなかった幽明境に実現された
  にすぎなかったいままでの生が失われたのではなく、更に次元を高められた幽明境とする高次
  元空間に蘇ったのではなかろうか。ここに恍惚の可能性がある。>
 
 森氏は、それがまた「壷中の天」たる全体概念でもあると言うが、<恍惚の可能性>とは「アルカディヤ」の章で使われる<宗教>と同じ意味であるなら、今くっきりと月山のように「天」が姿を見せたのである。
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